2016 再開祭 | 逐電・和

 

 

「俺が踏み入れぬ処に行かれれば、逃げていると思う」

木洩れ日の初夏の隧道の中。
惑うたままでも頑固に進む小さな背に三歩まで寄る。
射し込む光で明るくなった亜麻色の髪を見つめて告げる。

「そうじゃないわよ!タウンさんと約束したもの。すぐ帰るって」
「選りによって、何故尼寺ですか」
「冷静になりたかったの。あなたとケンカするのはイヤなの。昨日はお互い頭に血が上ってたでしょ?違う?」
「ならば叔母上の許でも、典医寺でも」

声に振り返り、思った以上に近く寄っていたのだろう俺に向け安堵したような瞳が凭れかかる。
その瞳を見ればもう逃げる事は無さそうだ。
そう判じ、静かに歩を止めてみる。この方は続いて歩を止めて、恐る恐る小さな掌を差し出す。

細い指をそっとこの掌に包み込む。最初からそうすれば良いのに。
不安ならば不安だと、手を握れと差し出せば良いのに。
そう出来ん意地張りな方だと知っているから、己から握れば済んでいたのに。

なのに一晩この方を一人にした。この方も敢えて俺から離れた。
そこまでして考えた互いに譲れぬもの、そして譲らねばならぬもの。

「すぐに顔を見たら、もっとケンカになりそうだったんだもの。
叔母様のとこや媽媽のとこや、典医寺だったら飛んで来たでしょ?」
「・・・当然です」
「でもね、ヨンア」

細い指が握っていた掌から逃げる。
掴み直そうと空の掌で探した指が先に俺を見つけ、武骨な指を優しく握り直す。
「私、心を売る気なんてない。あ、もちろんお金は稼ぎたいわよ!」
「・・・イムジャ」
「怒んないで。最後まで聞いて」
その瞳に見上げられ、太く吐いた息でどうにか声を誤魔化す。

「だけど、あなたがみんなのことどれ程大切に思ってるか知ってる。
考えて?私が作ったものが、みんなの健康に役立つかもしれないの。
ヨンア、知ってる?たとえば、歯磨き粉」

この方は真剣に俺を見上げたまま紅い唇を丸く開き、小さな真珠のような白い歯を示して見せた。
「口の中を不潔にしたままだと、歯肉炎や口内炎。最終的には肺炎になる事もあるの。
歯が汚くて死んじゃうことがあるのよ?
もちろんそこまで行かなくたって、歯肉炎や歯槽膿漏とかで歯が抜けたら咬合も悪くなる。
よく噛まないで食べれば、消化器官に負担がかかるわ。良い事はひとつもないの。
今はまだ、歯科医療も衛生観念も発達してないし」
「・・・はい」

確かにそうだ。兵でも歯の悪くなった奴は集中力が落ちる。
腹に力が籠らなくなる。経験からもそれは判ると、俺は頷いた。
但しそれが命を落とす程の大事に繋がるとは知らなかった。

「石鹸はもう、衛生の基本よ。ただ水で洗うより、絶対汚れが落ちやすい。
汚れが乳化されて滑りが良くなるのもそうだし、材料に殺菌作用のある物が使われればなおさら」
「はい」
「それにうちで出してるお茶。薬湯が基本だし季節によって種類も変えてるから、健康に良いのは分かってくれてるわよね?」
「ええ」
「普通に暮らしてるみんなが、どれくらいお茶を飲んでるかなあ。
緑茶はお金持ちの為だっていうし、きっと知らない人も多いと思うわ。
まだ伝統茶ももちろんないし、薬湯は体が悪くなって初めて飲むって思ってる人がほとんどだもの。でしょ?」

葉を透かす翠の木洩れ日を映し、いつもより白く見える頬。
月より明るい光が、頬に落とす睫毛の影。
もう一度掴まえたこの方が、握った俺の指を揺らす。
ねだるように。判ってくれと諭すように。

「・・・はい」
「漢方の基本は未病。病気にならないように、自分の悪いところや弱いところをあらかじめ補ってくの。
風邪をひいて熱が出てから薬湯を飲むんじゃなく、風邪をひかないようにビタミンCを多めに摂取とか。
薬湯を処方するにはいろいろな薬草が必要になるわ。値段だって高くなる。
だけどお茶の段階ならそれ程気にしなくて良いものもあるの。手軽に飲めるし」

判って来た。少なくとも商売をしたいだけではない事が。
この方はただ、民に健康でいて欲しいと願っている事が。
頷く俺に勇気づけられたように、この方が声を続ける。

「でもね、お金をもらわないで無料で配り続けるのは無理。だってどうしたって原材料費がかかるんだもの。
作るにしたってビジネ・・・商売になれば、人件費も必要だしね。それに人間って不思議だけど」

この方は其処でようやく真剣だった瞳を、悪戯そうに光らせた。
「タダでもらったものより、お金出して買ったものの方が効き目があったりするの。
精神的な部分もあるのかもしれない。無料配布だけが絶対に良いと思わない理由はそこよ。
それに作る側も無料だからって手を抜くより、良い材料で妥協しないで責任もって作る方がいい」
「そうなのですか」
「もちろん買えない人もいると思う。材料は手に入るけど、お金が厳しいとかね。
そういう人にはレシピを教える事も出来るし、材料と物々交換でもいいでしょ?
いくらだってフレ、えーと、臨機応変に。
それも無理なら、もちろんタダでもいいわ。だけど大々的にそうするのはダメ。
買ってる人との間に不公平感が生まれちゃう」
「しかし民に行き渡るだけの量を、お一人で」
「うん。だから考えたの。まず私が出来る限り作る。申し訳ないけど最初は典医寺の皆の空き時間を借りて、バイトしてもらうわ」

この方は意気揚々と話し始めた。俺の指先を振り回して、嬉し気に。
この方をもう一度掴まえたのではない。
この方は掴まりに来てくれた。こうしてもう一度俺を振り回す為に。

結局俺はこの方の肚の裡を読みきれずに、ただ振り回されていた。
俺の為に民の事まで考えて下さるなど予想すら出来ずに。
こうして昨日尋ねれば、きっと総て教えて下さっただろうに。

「それをまず開京とか碧瀾渡とかの、大きな薬房に置いてもらうの。お客さんに勧めてもらう。
購入ルートや、顧客のニーズが把握出来たら、フランチャイズにするのよ」
「ふらん、ちゃいず」
「権利を売るの。作り方つきで。そして、それぞれの薬房で作ってもらう。もちろん原材料や工程は絶対変えずにね。
そこで出たマ・・・利ざやは薬房のもの。そうすれば量が作れるようになるし、私たちだけが頑張らなくても普及してく。
みんなも手に入りやすくなる。自由価格にすればもっと良いけど、そこまではどうかなあ」

金の話に流れれば俺は門外漢だ。お好きなようにすれば良い。
こうして冷静に向かい合えば、話してみれば全て腑に落ちる。
譲れぬものと、譲るべきものが見えてくる。
この方は心を売ろうとしたわけでは無い事も。
そして民の為にそこまで深く考えていた事も。

「イムジャ」
「うん」
「正直言えば、面白くはない」
「え?」
「あなたの手作りの茶を、他の者も飲むのでしょう、これから」
「だから私が作るんじゃないってば!あなた以外の誰にも、手作りの何かを出したりしないわよ!!
でもみんなが健康なら、あなたも嬉しいのかなって、そう」
「・・・我慢します」

噴き出すのをこらえてそう告げる。
「望む通りに。よく判りました」
「ほんと?ほんとに?」
俺の声を映す瞳が木洩れ日よりも輝いた。

「但し金儲けは二の次に。まずは民の事を考えて欲しい。
おっしゃる通り、困窮している者が多く居ります」
「分かった。それはゆくゆく考える。まずは材料と交換で良いわ。
山や河原で、難しくなく採れそうな物と」
「はい」

こうして譲るべきものを伝えれば、最後はもう一つ。
それをこれから正直に伝える為、俺は短く息を吸う。

 

 

 

 

5 件のコメント

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    ちゃんと話すと こんな感じ…
    (๑´ლ`๑)フフ♡
    なんだ やっぱり
    ウンスの独り占めしたいのか。
    ヨンったら…
    ウンスお手製は ヨンだけよ。
    ここは 譲れない!
    かわいいわ♥

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    さらんさん、おはようございます。
    その後の手のお加減を心配しつつ、更新嬉しく読ませていただいています。痛みと不自由さをすこーしずつご自分なりに工夫と改善させながら、の生活と更新なんでしょうね。ありがとうございます(*^o^*)
    ここまでヨンのようにキュンキュンしながら読んでます。今日のウンスの画像は初見です!お話にあってるし、超かわいいです(≧∇≦)
    暑さで手がかゆかゆでしょうか、ゆっくりご自愛くださいね

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    ウンス、良かったですね。
    ヨンに、理解してもらえて。
    話し合えば分かり合えることが、いろいろある。
    この後、作るための材料や時間、手伝ってもらう人たちへの説明・・、まだまだ準備が必要だけれど、一歩進めて、良かった!!

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    さらんさん~❤
    さらんさんお話しに感服しました(^^)
    ウンスの言の葉に、うん!うん!と
    納得しながら、読み進めておりました(^^)
    さぁ~次はヨンの言の葉ですね。
    楽しみです~~❤

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    さらんさん、こんにちは!
    いざ聞いてみると答えは至ってシンプルで単純な事なんだけど、この二人は伝えるのが苦手ですからね。
    すぐに冷静さを失い売り言葉に買いことばになるウンスも、自分の気持ちを伝えるのが下手なヨンも。
    今回はお互いの気持ちをぶつけ合いちゃんと理解しあえたようで良かった。
    ホッとしましたよ~!

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