2016 再開祭 | 天界顛末記・丗柒

 

 

「話せ」
頑として首を振るチュンソクの口は真一文字に結ばれている。
そこから一言の言葉も漏らすまいと決意しているかのように。

「話して来い」
明日はけいさつしょで引き渡された奇轍を捕縛し、天門へ戻る。
残された刻はない。
「私もそれが良いかと。残る時間は明日の朝までです」

侍医も俺の言いたい事は判っているのだろう。
足りぬ言葉を引き継ぎ、チュンソクへと声をかける。
しかし奴の翻意は望めない。
俺達の説得の声が続くほど、頑なに首が大きく振られる。

「俺が懐かしがっているのが、ソナ殿なのかどうかすら判りません。
ましてもう二度と訪れると約束も出来ぬ者が、これ以上関わる訳に行きません」

何処まで馬鹿正直なのだ、この男は。
呆れ返って溜息すらも漏れて来ない。
「悔いるぞ」
「隊長」
「来年の酒代を賭ける。悔いるぞ」

一か八かの賭け事は好まん。しかし此度だけは断言できる。
何かの縁あって巡り会う相手に目を瞑り見ぬ振りをすれば。
無かった事にし己の心を騙し、素知らぬ顔で通り過ぎれば。

後で眠れぬほど悔いる事になる。心が痛んで如何しようもなくなる。
その時になっても遅い。手から零れた刻の砂はもう二度と掴めない。

「では私は、来年の薬草代を賭けましょう。必ず後悔されます」
相変わらず涼しい顔で、侍医までが珍しくこの賭けに乗って来る。
チュンソクは困り果てた顔を向ける。
「御医まで何を」
「私の薬草代、隊長の酒代。相当な額です。副隊長、お覚悟を」
「悔いるなど」
「絶対ですか」

侍医は穏やかな目のままで、チュンソクをじっと見つめた。
侍医の背にした冬の陽は西に傾き、仮寝の宿の窓を照らす。

こんな色の冬の夕陽を、あの頃のあの方は見て来たのか。
そう思うだけで居ても立ってもいられずに、あの国都図の青印の残る奉恩寺へ駆けて行き、弥勒菩薩の台に飛び込んで戻りたい。
そのまま船で一路開京へ。そこから早馬で皇宮まで。
典医寺のあの薬草園を駆け抜け、あの方の部屋の扉を叩き、其処から見えた紅い髪に、鳶色の瞳に詫びたい。

留守にした事、行先を黙して伝えなかった事。
そもそもあなたを此処から攫ってしまった事。

あなたに見せたい凍る蒼天の色、雪の舞う様、窓外の夕陽の赤。
必ず戻す。再び見られるように。
高麗とは違う景色を一日も早く、再び見られるように。

たとえ小さな手が俺から離れ、俺が今のチュンソクのように恋しがっても、気にする事などない。
それは俺への罰で、俺は贖うべきだから。
逢えなくなろうと、胸に刻まれたあなたを想い続ける事が出来るから。
離れて待っていて下さるあなたをこうして真横に感じるように、いつまでも想い続けていけるから。

目の前にいる相手に、まだ伝える機会がある相手に、何の負い目もない相手に臆病になるこ奴が羨ましくそして歯痒い。
許されるなら襟首を掴み、あの女人の前まで引き摺って行きたい程に。

「チュンソカ」
「・・・はい、隊長」
「何が怖い」
「何一つ誓えません。自分は隊長とは違います。何の力もない」

下らん言い草に喉で笑えば、チュンソクは明らかに気を悪くしたよう血相を変えた。
「笑い事ではありません」
「力だと」
「そうです。医仙をお返ししようと、あれ程守っていらっしゃるではないですか。俺は二度と」
「帰って来るな」
「・・・は?」
「王命は俺に下った。奇轍を捕縛し、侍医と副隊長と共に無事帰れ。お前に下ったわけではない。
お前は何も聞いていない。残れ」
「隊長」
「後で悔いるなら、此処に残れ」
「隊長!」

あの方をお返しする誓いすら守れぬ俺に、そんな微々たる力もない俺に出来る事。
せめて己を信じ命まで懸ける馬鹿どもを、一人でも悔いなく進ませるくらいしか。

「隊長、それは」
さすがの侍医も穏やかな仮面をかなぐり捨てて此方へ詰め寄る。
それは。その後は何だ。
守る者が出来たら、守りたい者が出来たら迷いを捨てれば良い。
何処ででも生きていける。それほど大切な者が傍に居るならば。

俺に出来ないのはそれだ。
迂達赤隊長の名が重く、師父が遺した声が重い。
王様との約束も重く、何より重い筈のあの方への誓いだけが宙に浮く。
本当は俺が帰したくないからだ。そう判っているからこそ、己の汚さに嫌気がさす。

もっと前に帰していれば。あの時チョ・イルシンの運んだ王命など無視していれば。
奇轍の屋敷から抜けた折、慶昌君媽媽の元へ向かわずにあの方を望み通り帰していれば。

考えても考えても答など出ない。過ぎ去った刻は取り戻せない。
考えるのはこいつの役目だ。そしてこいつはいつも考え過ぎる。
「チュンソカ」
「は」
「たまには考えず動け」

そう言い残して立ち上がり、天界の分厚い上衣を煽って羽織る。
座り込んだままチュンソクが俺を見上げ、中途半端に膝立ちの侍医が戸惑った顔を見せた刹那。
「お兄さん・・・ちょっといいですか?」

仮寝の部屋の扉外、響いた声に侍医もすかさず床から膝を上げた。

 

部屋の扉が開いた途端、外から凍るような風が吹き込む。
その扉前、外に佇むソナ殿に小さく顎を下げ隊長が抜ける。
続いて御医が頭を下げると
「申し訳ありません。隊長と出掛けて参ります。
暫し掛かりますので、副隊長のお相手をお願いいたします」
柔らかいが有無を言わせぬ口調で残し、隊長に続いて部屋を出る。

共に抜け出る機会を逸したから此方からは、御医の背しか見えず、声しか聞こえない。
見えるのは勢い良く外階段を降りていく、隊長と御医の後姿。
そして呆気に取られ部屋の扉前に残されたソナ殿の顔だけだ。

やられた。あの人には近づくソナ殿の気配が判っていたのだろう。
しかしこうなって俺もと立ち上がり、部屋を出るのも妙な気がする。
ソナ殿は部屋内に一人取り残された俺に困った顔で微笑むと
「ビンお兄さんもチェ・ヨンさんも、お買い物ですか?」

そう言って寒風の中、部屋に入る事もなく立ち尽くしたままだ。
病み上がりなのに。それだけが俺の足を動かす。
気づけば暖かい床から立ち上がり、俺はその扉を大きく開いていた。

「さっきはお茶だけだったから、晩御飯のこと、確かめに来たんです」
「・・・直戻るかと。よろしければどうぞ」
この声に頬を赤くし
「じゃあ・・・遠慮なく、お邪魔します」

そう言ってソナ殿はゆっくりと頷いた。

 

 

 

 

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