2016 再開祭 | 孟春・後篇 〈 雲隠れ 〉

 

 

「あ、お目覚めですか、大護軍様」

眸を開けた途端、聞き覚えのない声に跳ね起きる。
そして見知らぬ寝台の上、見覚えのない室内に瞬く。

「温宮です。たった今、医仙様が御部屋をお出に」

戸惑う俺を見兼ねたように医官は静かに言葉を添えた。
その一言で思い出す。そうだった。公州の温宮。
眠るつもりはなかった。いや、今言及しても後の祭だ。

俺は横になり、あの方は緩やかに優しく肩を撫でた。
患者は大人しく寝ろ。そうおっしゃりつつ、あやすように。
それで前後不覚に眠ったとすれば、己が思う以上に体には無理があったという事か。

「お一人でか」
寝台を飛び降り詰問する声に、医官は狼狽えたように
「ええ。医仙様がお出になった途端に大護軍様がお目覚めになったので、私も驚いて」
と言いながら、診察部屋の扉を指した。

「何処へ」
「申し訳ございません、そこまでは伺わず・・・」

確かめろ、この暢気者が。其処こそ肝要だろうが。
そう怒鳴りつけたいのを抑え、そのまま部屋を出る。
「戻って来たら待って頂け」
最後に念押しの一言を残して。

部屋を出て左右を見渡し確かめる。温宮の狭い廊下。
壁に沿って並ぶ光取りの窓外は、今も十分に明るい。
真冬のこの明るさならば午の刻を回ってはおるまい。

温泉の熱の所為か、宮自体の小ささも相まってか、廊下は開京の皇宮に比べて幾倍も温かかった。
この中で何が起きる訳でもない。
万一不穏な気配でもあったなら、どれ程病が重かろうとあのように寝こける訳がない。
それでも起こせば良かっただろう。
惰眠を貪っていようと、深い夢に落ちていようと、声が聞こえれば絶対に、まして触れられれば必ず起きた。

例えどれ程湯治が楽しみとはいえ、お一人でこの刻から湯を使う事はあり得まい。
まして病で寝ている俺を置いて。
同じ理由で、寝所に宛がわれる部屋へ移る訳もない。
敢えて俺に声を掛けぬとすれば。

廊下をやって来る聞き慣れた軍沓の音に振り向き、その気配に近寄る。
廊下を曲がって来た兵の鎧を纏わぬ鍛錬着姿に、宮中の平穏さを見るようで、ほんの少し気分が軽くなる。

近寄る俺に気付いた兵が一斉に直立不動に直り、深く頭を下げた。
「大護軍!」
「大護軍、お加減はいかがですか」

もう噂が広まっておるのか。
温宮は訪う者が少ない所為か、噂の広まり方も格段に速い。
そんな事は今はどうでも良いと首を振り、俺は兵に向かい最後の一歩を大きく詰める。

鼻先に一瞬で寄られた兵が仰天したように目を瞠るのに
「・・・手水場は」
己の言葉がつくづく情けない。顔から火が出そうだ。
何が悲しくて仮にも皇宮王様最近衛、迂達赤大護軍の俺が、初見の兵に厠の在処を確かめねばならんのか。

しかし湯屋でもなく寝所でもなく行く処といえば、其処以外には思いつかぬ。
皇宮ならば此処まで事を荒立てない。厠まで伴をするようではあの方も俺も互いに身が持たぬ。

但し此処は違う、ましてや勝手の判らぬ初日に。
俺ですら右往左往する有様であの方が見つけたら、そちらの方が驚きだ。
「手水をお使いになりますか。すぐに誰かに運ばせ」

兵の一人がそう言って走って行こうとしたのを止める。
「場所だけ教えろ」

余計な気を廻すな。言を濁しただけだ。手水場ではなく、厠の場所が知りたい。
水廻りは固めて一箇所にと、相場が決まっている。
気を廻すなら其処まで汲み取れと、八つ当たりでも腹が立つ。

「最寄りではこの廊下の突き当りを右に折れた処ですが」
「判った」
兵の一人が指した先を確かめ、無言で廊下を進む。
背後で廊下に立ったまま見送る兵らが囁き交わす
「いやあ、こんな近くでお会いできるとは」
「兵長も見習って欲しいものだ。大護軍が御自身で手水に立つのに、兵長は毎朝俺達に運ばせて」
「だから辺境の兵長止まりなんだろ。大護軍のような方は、心構えからして全てが違うんだ」
そんな見当違いの褒め言葉の礫を、心底苦々しく感じながら。

目指す手水場は廊下の奥まった一角にすぐ見つかった。
思った通り、手水場の横には目指す小さな扉。
「・・・イムジャ」

扉前で呼ぶ訳にもいかず、離れて小さく声を掛ける。
しかし応答の声はない。
「イムジャ」

都合の悪い処へ来てしまったのだろうか。
その場から更に三歩下がり、腕を組み眸を閉じる。
頭の内でゆっくりと五十数えて、もう一度。
「おいでですか」
それでも返答はない。気配は疎か衣擦れの音ひとつすら。

「失礼」
小部屋の扉前まで進み出で、その簡素な戸に指先を掛ける。
閂が掛かっていれば開かぬ扉は、何の手応えもなく開いた。

そして中はすっかり蛻の殻だった。

 

 

 

 

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