2016再開祭 | 茉莉花・拾参

 

 

ようやく東空が明るくなり始めた開京の外れの一本道に差し掛かる。
周囲に未だ人の往来はない。
白む朝空からの逆光に、愛馬と跨ったチェ・ヨンの影だけが浮かぶ。

市中を全速で駆けさせるわけにもいかなかった。
今ようやく目の前に伸びる、城外へ続く一本道。
そこで初めて腹に踵を入れると、愛馬は背のヨンの重さなど物ともせず軽い並足で駆け出した。

周囲の夏景色が緑に霞み、飛ぶように流れていく。
駆ける愛馬の邪魔にならぬようチェ・ヨンはその背で身を伏せる。

チュホンが載せる最も軽い鞍、他には鐙も手綱も着けていない。
余計な重さを感じさせたくないと思っての事だったが、愛馬はヨンの声と動きそして気配に従った。
背に跨ってこれ程一体になれる相棒など、この愛馬以外には到底考えられない。
だからこそ仔馬は返すしかない。

判院事の屋敷に厩舎がないのは仔馬の所為ではないが、群れの序列を知らぬのは仔馬の育ち方だ。
そんな仔馬の育ちを調べもせず、厩舎も建てず娘に買い与えたのは判院事。
儀賓の頼みとはいえ、馬房の主チュホンが鬱陶しがっては本末転倒になる。
その背で運ばれながらもう一度考える。
お前だけが辛いのでは不公平だ。

チュホンの脚が満足して止まるまで自由に駆けさせた後、チェ・ヨンはその首を軽く叩くと声を掛ける。
「戻るか」

それだけで愛馬は機嫌良く、すぐにその足を開京に向けて戻した。

 

*****

 

「チュンソク」
いつもの出仕よりもずっと早い刻、突然兵舎に現れたチェ・ヨンの姿にチュンソクが慌てて頭を下げる。
「大護軍、随分早いですね」
「儀賓大監にお会いしたい」

現れたのも急なら、その要請も急過ぎる。
予想もしなかった言葉にチュンソクは目を白黒させた。
「儀賓大監、今からですか」
「繋げるのはお前しかおらん」
そう言われればその通りだと頷くしかない。
「お願いしてみます」
「頼む」
「は」

兵舎の吹抜け脇の階を足音も立てず上がって、私室の扉へ消えるチェ・ヨンの背を見送った後。
チュンソクは首を捻ると兵舎を飛び出た。

 

「大護軍、どうされた」
邸宅の応接の間。
茶卓を挟んで向かい合った儀賓大監は、正装の麒麟鎧の武者二人を交互に見ながら尋ねる。

早朝の訪いの前触れに許しを得、一旦兵舎に戻ったチュンソクは再び、今度はチェ・ヨンと共に儀賓大監の屋敷を訪れていた。
その二往復でチュンソクが息を切らす横、チェ・ヨンは儀賓に頭を下げて突然の訪問の非礼をまず詫びる。
「早朝より申し訳ありません」
「いや、それは一向に構わぬが」

儀賓は鷹揚に頷きながらも、真意を測りかねるようチェ・ヨンの様子を見た。
「お預かりした仔馬の件で」
「どうかしたのか」
「某の馬と反りが合わず」

チェ・ヨンの言葉に儀賓が眉を顰める。
しかしチェ・ヨンもここで引き下がるわけにはいかない。
「軍馬として跨る以上、常に万全の備えが要ります」
「確かに二つとないそなたの命を預けておるのだ。愛馬なしで戦には出陣出来ぬ。その通りであろうな」
「故にこれ以上は」
「そうか・・・」

その名分に反論の余地もないと、儀賓にも充分理解が出来るのだろう。
公主との婚儀以前には文官とはいえ、皇宮に仕えた立場の儀賓大監はチェ・ヨンの言葉に頷いた。
「大監。宜しければ判院事殿が厩舎を完成するまでは、仔馬は迂達赤厩舎でお預かりします」

チュンソクが間を取り持つように、二人の会話に遠慮がちに入る。
片や心から尊敬し、半ば師事するように慕い補佐する上官。
片や心から慈しみ、行く末まで真摯に考える女人の御父上。
万一これが契機となって反目されては、己の立つ瀬がない。
しかし唯一の気掛かりは、チェ・ヨンに仔馬を預ける折に儀賓大監が発した昨日の祝宴での一言。

───── これ以上生家の恥を、皇宮で晒すのは忍びない。

己の提案は何の毒にも薬にもならないと、チュンソクには判っていた。
あれだけ手を尽くして皆を巻き込み、結局元の木阿弥だ。
しかしたかが仔馬の所為で、チェ・ヨンを悩ませるのだけは避けたい。
そして儀賓大監の為にも、仔馬を納める厩舎の目途が立つまで放っておく訳にはいかない。

当の判院事は思いも掛けない事だろう。
娘可愛さに前後の見境なく仔馬を飼い与えただけで、他の事など考えもしないのだ。
それが理由で大の男が三人こうして額を突き合わせ、善後策に頭を痛めているなど。
人は好いのだろうし、娘が可愛いのは判る。
しかし躾もせず野放図に望みを片端から叶えるだけでは、無責任ではないだろうか。

面と向かっては口が裂けても言えない言葉が、腹に溜まって仕方ない。
チュンソクが吐いた息をどう誤解したか、チェ・ヨンが視線の端でチュンソクを流し見た。

 

 

 

 

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