2016 再開祭 | 銀砂・結 前篇

 

 

「何ですか」
「あなたのお使いになった、あの馬に打った鍼」

わざわざここまで訪ねて来て、突然何を言いだすかと思ったら。
医の話だったのかと、私は少し安心して身構えを解いた。

「はい」
「あれは、お国ではよく行われますか」
「知りません」
「え」

正直に言ったら、チャン・ビンは勢い込んだ出鼻を挫かれたように薄く口を開いた。
けれどそれが事実なのだ。私は知らない。

「他の医者が馬や駱駝に使っているとは思えない。我が国の医の技はユナニと呼ばれる。
四つのマザージュがある。熱冷、湿乾。その組み合わせで気質が決まる。
体には二つの液、血と粘があり、二つの汁、黄胆と黒胆が流れている」
「我が国と似ています」
「遥か昔、ある小さな島に生まれた医の父から受けた教えが元になっている。名はヒポクラテス」
「・・・え?!」

チャン・ビンの小さな叫び声に驚いて、私は声を切る。
「何ですか」
「リディア殿。今、何とおっしゃいました」
「小さな島に」
「違います。あなたの医の師は」
「私の師ではない。ユナニの教えの源流が、ヒポクラテスという方から始まっているのです」
「ヒポ、クラテス。ヒポクラテス・・・」

チャン・ビンは幾度も呟きながら頷いた。
「その方の教えなのは確かですか」
「医書に記されている。私は字が読めます。間違える訳がない」
不躾な問いに気分を害して言い返すと、男は気付いたように頭を下げて非礼を詫びる。

「鍼以外には、どのような治療をされるのです」
「まずは衛生。薬も調合します。材料の種類はおよそ二千と五百。ほとんど薬草だが、生き物や石も使う」
「その草を、あなたは育てていらっしゃる」
「そうです。しかし調合は専門の薬員がする。医者は治療に専念します」
「・・・調合は、薬員・・・それもヒポクラテスのお教えですか」
「ユナニではそうなっている。薬房には監督官もいます」
「それで、その二千五百でどのような薬を」
「チャン先生」

勢い込んで前のめりに向き合う男を鎮めるように声を掛ける。
この男は一体ここまで、何をしに来たのだろう。私に文句を言いに来たわけではないらしいし。

「馬の鍼のことを、訊きに来たのか」
「馬の鍼も、ユナニというあなたの御存知の教えも、ヒポクラテスという方の事も、何もかも」
「一朝一夕に語れる事ではない。あなたも医者なら御存じだろう。付け焼刃は却って患者の毒となります」
「リディア殿」

チャン・ビンは強い眼差しで、初めてはっきりと意志をこめ、瞬きひとつしないで私を見た。
その目に気圧される。こんな事ではいけない。砂漠の民が男の視線一つで動揺するなど。
意識して頭を高く上げ、声を張って私は答える。

「・・・何ですか」
「お急ぎの旅ではないとおっしゃいましたね」
「ええ。駱駝がみな弱っているし、ようやく餌場が見つかったので今は元締が高麗の役人と交渉中です。使えないならまた別の」
「その間、碧瀾渡にいらっしゃらないといけませんか」
「いや。駱駝が餌を食べ始めればその必要は・・・元気を取り戻すまでしばらくの間は、様子を見て」

チャン・ビンが二人の間を一歩ずつこちらに詰めて来る。
下がるのは負けるようで悔しい。下がる必要もないから、そこで足を踏み留める。
しかし互いの息がかかる距離になって初めて
「チャン先生。離れてほしい」

さすがの私も両掌を男に向け、制止の声を掛ける。
この距離は夫以外の男には許されない。周囲の者の目にも誤解されかねない。
幾ら高麗では男女が同等とはいえ、礼儀はあるはずだ。

チャン・ビンは言われて初めて気付いたように、狭まり過ぎたその空間に目を遣ってから大きく一歩後退る。
「失礼しました。つい」
先刻に続いて本当に申し訳なさそうな顔をするから、怒るべきが思わず噴き出してしまう。
「あなたが欲しい」

こちらが笑ったと思えばこれだ。この男は何を考えているのか。
「ふざけているのか、チャン先生」
「違います。あなたが欲しい。あなたの医の知識、それにあなたと話して欲しい方がいます」
「話して・・・ほしい」

チャン・ビンは焦れたように履の爪先で、小さく地面を叩いた。
そして物思うように唇を引き締めて頷くと、もう一度私を見つめ
「ええ。先日の医仙を覚えておられますか。私達と共にいらした、赤い髪の女人ですが」
「ああ、あの・・・」

一風変わった女ですね、そう言おうとして急いで口を閉じる。
チャン・ビンは私の心中に気付いたか少し笑うと
「はい。あの方と、是非話して頂きたいのです」
「それは構わないが、何故」
「きっとお二人は同じ源流をお持ちです。そしてあなたの医の道はとても不思議なのです。
あなたを知りたい。もっと知りたい。何を御存知なのか、全て知りたい。だから教えて頂けませんか」

聞きようによっては熱烈な求愛にも聞こえるそれに、怒るべきか頷くべきか。
「お願いです。あなたを知る機会を下さい」

そう言って深く頭を垂れたチャン・ビンの、黒い川のように流れ落ちた長い髪が、吹いて行くそよ風に揺れていた。

 

 

 

 

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2 件のコメント

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    典医寺の治療室?休憩室?で、
    チャン・ビン先生がウンスに訊いたっけ。
    華だ(変換できません)の弟子ですよねって。
    ウンスの応えは…
    ヒポクラテスの教えの方…って。
    チャン・ビン先生、それを覚えていたんだぁ。
    ウンスと彼女が話して、医術の進展があるのかな。

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