曙の寝台、ウンスを腕に抱くチェ・ヨンの双眸が朝闇の中でいきなり開く。
窓の外は暗い。早い夏の陽すら東空に昇る前。
暗い窓外の景色を切り取る高い鼻梁の横顔の、睫毛の影だけが一度瞬く。
そうして目を開け寝屋を見渡して、自分自身が驚いた。
何の前触れもなく温かい眠りから引張り出された事に。
まるで綺麗に拭ったように、頭の中は眠気のひと欠片すら残っていない。
腕の中のウンスの深い寝息。心地良さそうに微笑んだ寝顔の口許。
閉じたままの長い睫毛と白い頬を、指でなく視線で撫でて確かめる。
何処にもいつもと違う様子のない、安心しきった穏やかな寝顔。
しんと静まり返った屋敷内。
一番鶏と共に起き出すコムですら、まだ起き出す気配はない。
己の身動ぎで腕のウンスを起こしてしまわないように気を配り、チェ・ヨンは思い出す。
この目覚め方は、戦場でのものと似ている。
どれ程深く眠っていても体の何処かが気配を感じ、いきなり先に目が開く。
今はそんな殺伐とした命の遣り取りとは無縁の場所にいるのにと、己の因果を心で嗤う。
結局どれだけ平穏の中に居ても兵か。頭の前に体が先に動き出す。
起き出すには早過ぎる。
刻々と明ける空を眺め、二度と訪れそうもない眠気を待ちながら、何が自分を起こしたのかを探る。
部屋の内外、屋敷の中、そして庭までの出来る限りの気配を読んでもいつもと何も変わらない。
チェ・ヨンは首を傾げたくなった。
敵ではない。
もしもウンスの安全を脅かす気配が寄るなら眠っていても叩き起こし、肩に担いで抜け出ている。
しかしそれでは、突然こうして共寝の夢から引き摺り出された理由が判らない。
敵でもなく、ウンスに異変が起こったわけでもないなら。
その刹那に理解した。呼ばれたのだと。
庭の厩舎から鋭い愛馬の嘶きが、夜明けの静寂を破り響いた時に。
ヨンの腕の中でウンスが目を開けた。
チュホンの高い悲鳴のような声を聞き、思わずヨンの顔を見る。
「な、なに?!」
高麗に来るまでウンスは馬に触れた事も、まして乗ったこともない。
でもあの声が尋常な様子ではないことくらいは分かる。
腕の中から見上げたチェ・ヨンは既に目を開けて、自分を見上げるウンスの視線に頷くと
「行って参ります」
それだけ言い残し寝台から滑り出て、寝屋着の上から長衣を引掛け音もなく寝屋の扉から消えた。
同じ嘶きで叩き起こされたのだろう。
駆け出した庭では離れの方向から走って来たコムが、ヨンに追いつき並んで走る。
「ヨンさん」
「おう」
愛馬の賢さは、家人や迂達赤なら誰もが知っている。
日の出前の早朝にあんな嘶き声を上げたりするのは、余程の事だと察しが付く。
厩舎の中でヨンを見つけた愛馬チュホンは嘶きを止めたが、隣の馬房との仕切りから精一杯体を離し、逆の壁に身を寄せている。
そして昨日コムが拵えた仮の区切り向こう、仮の馬房から判院事の仔馬が身を乗り出すようにそんなチュホンをじっと見ている。
気に障って仕方がないのだろう。
チュホンはそんな仔馬に向けて耳を伏せ歯を剥き出している。
だが仔馬はチュホンの怒りなど、何処吹く風と言った様子だ。
尾を上げて耳を立て、構ってくれとばかりに隣の馬房を覗き込んでは、蹄で馬房の床の藁を掻いている。
「こいつらは・・・全く合わなそうですね」
コムは二頭を見て呆れたように首を振る。予想通りだとチェ・ヨンの肩が落ちる。
こんなに行儀の悪い仔馬では、チュホンの気に入る訳もない。
辛抱強い愛馬は主の為に昨夜一晩耐えた上で、いよいよ堪忍袋の緒が切れたのだろうとすぐに判る。
「無理だな」
コムの落胆の声にチェ・ヨンが請け負った。群れの生活に慣れていないか、それとも元来なのか。
上位のチュホンが耳を伏せて睨めば、普通の馬は尾を巻いて逃げる。
群れの秩序も判らない馬を隣の馬房に繋ぎ、愛馬にこれ以上の辛抱を強いるのは酷だ。
「持ち主に返す」
「返せるんですか」
「掛け合う」
言いながらチェ・ヨンは怒り興奮したチュホンへと静かに近付く。
知る限り愛馬がこれ程に荒ぶる事は滅多にない。
下手に近づけば自分でも、蹴られない噛まれないとも限らない。
しかし愛馬は馬房へ近づく主の足音を聞いた途端、頭蓋に張り付く程伏せていた耳をすぐに立てた。
そして頭を真直ぐにチェ・ヨンへと向けると、横木を超えて首を伸ばす。
「疲れたか」
声を掛け鼻面を撫でるうちに落ち着いたか。
チェ・ヨンの肩に顔を乗せると、チュホンの黒い目が穏やかになる。
しかし完全に警戒を解いていない証拠に、その耳だけは立ったまま隣の馬房へ向いている。
「コム」
愛馬の頭が載ったままでは動く事も出来ない。
後ろの大男を呼ぶと、邪魔しないように離れて立っていたコムが静かに寄って来る。
気鬱の溜まる狭い馬房で、これ以上礼儀知らずの余所者と共に愛馬を繋いではおけない。
自分も愛馬も散々だ、あの判院事の一家のせいで。
「着替えて来る。チュホンを牽いてくれ」
皇宮への出仕前に少し辺りを走らせてやろうと思い立ち、ヨンはコムへ伝える。
チェ・ヨンの言葉は何処まで通じているのか。
その声にチュホンは嬉し気に広い肩から頭を降ろし、横木を鼻で押し上げた。

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やっぱり チュホンも
主人と同じだったか…
さぞかし ストレスたまったでしょうね~
かわいそうに
それを
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ポチッとしちゃた(笑)
ちゃんと ヨンも
チュホンの気持ちを理解してあげてるなんて
さすがだー
仔馬ちゃん… 主人となるお嬢様と
すでに 性格が…一致してる?
困ったな~ 困ったな~
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チュホン、気が合わないのね…。
人間なら、勝手に逃げて避けられるけれど、厩舎に繋がれていると、そうはいかないね。
賢く、人を想える、逞しいチュホンが嫌がるのだから、その子馬、余程ダメちゃんな馬なのかも。
上手く返せるのかな、あちらへ。
まだ、あちらのお屋敷には厩舎が出来上がっていないようだから。
全く、お偉いさんとは言え、許せないわよね。