2016 再開祭 | 神技・結壱

 

 

明け方の寝台で目を醒ます。
寝台の横でこの手を握ったまま、胸まで落ちていた顔がふと上がる。

そのままゆっくり此方へ向き直ると、亜麻色の乱れ髪の奥の瞳が開く。
「おはよう、ヨンア」
窓からの光に眩しそうに笑い、あなたが小さな欠伸をした。

「よく眠れた?」
そう言いながら額の熱を測り、頬に触れ、頸に触れ、手首の脈を取り
「待ってて、洗顔と歯磨きの道具持って来る」
あなたは頷くと椅子を立つ。

「水場まで歩きます」
俺の声に小走りで扉まで届いたあなたの体が、其処で勢い良く振り返る。
「それが出来るくらいなら、最初から入院なんてしないの。完全看護が必要だから入院したの。
分かったら動いちゃダメ。1歩でもベッドを降りたら、本気で怒るわよ?」

朝陽の中で腰に手を当て、捲し立てる俺の頼れる主治医。
可愛らしいと口を滑らせれば、怒りの火に油を注ぐ事になる。
口は禍の元。そう判じ黙したままでただ頷く。
「はい」
「よろしい。じゃあ待っててね、すぐ帰って来る」
鹿爪らしい顔で頷いたあなたは、扉の影へと姿を消した。

 

*****

 

「おはよう」
薬員の詰所、声を掛けると当直の薬員さんが笑って頭を下げる。

「おはようございます、ウンス様」
「あのね、茵陳五苓散をお願いします」
「はい。大護軍様のものですね」
「うん。今から洗顔して朝食、それから服薬になるから」
「ちょうどいい頃あいかと思います。トギに粥を運んでもらうよう、私から声を掛けておきましょう」

いつもならここで言っちゃう。いいわ、私が行ってくるって。
だって食事の手配をするのは、ナースの仕事じゃないから。
でも今日は我慢して、その声に頷いて
「ありがとう、よろしくね」
そう言った私に、薬員さんがにっこり笑って頷いた。
「お任せください」

自分の部屋に置いてあった予備の柳の歯ブラシと歯磨き粉。
そして一番柔らかい手拭いを用意して、典医寺の中の水甕を置いた洗面所じゃなく、昨日も行った水路に走る。

せめて新しい冷たい水で顔を洗って欲しい。
水路の横に置いてある乾かしたきれいな木桶にいっぱい水を汲んで、ゆっくり診察室へと戻る。

閉まった扉を行儀悪く爪先で開けて中に入ると、あなたが驚いた顔で両手のふさがった私を見る。
「あああ、起きちゃダメ!」

今にもベッドから飛び降りそうなそのあなたに厳しく声を掛ける。
ギリギリどうにか思い留まってくれたものの、その手がじれったそうにベッドの上からこっちへ伸びて来る。
「渡して下さい」
「重い物も持っちゃダメ」
「そんな病、聞いた事も無い。腕が折れたわけでもあるまいに」

そりゃそうなんだけど。
返って来た正論にぐっと黙って、桶に張った水がこぼれないようにそろりそろりと歩いていく。
反論しようものなら、そっちに気を取られて中身がこぼれそうだもの。

やっとあなたの伸ばした指が桶に掛かる距離になった途端、両腕の中が魔法みたいに軽くなった。
あなたは何事もなかったみたいな顔をして、重たい桶を片手で掴んで軽々とベッドの横の台の上に乗せる。
勢い良く扱ってるわりには、周りに一滴の水もこぼさずに。
「魔法みたいねー」
思わずのん気に呟くと、低い声がぼそりと戻って来た。
「・・・治る病も治りません」
「え?」

空っぽになった手で、袖にしまい込んでた歯磨き粉と歯ブラシをあなたに渡して、診察室の隅にあるうがい用のコップを取りに行く。
作っておいた塩ミント水をそのコップに満たして持って行くと、あなたは困ったみたいにベッドから私を見上げた。
「半身だけ、起こして良いですか」
「・・・うーん、仕方ない。ちょっと待って」

コップを手桶の横に置いてあなたの背中に両手を差し込んで抱き締めるみたいにして上半身を起こすと、背中にまわりの枕を重ねる。
「これで良いわよ。寄りかかっててね。まず顔を拭くから」
懐から手拭いを出して、汲んで来たばかりの冷たい水の中に突っ込んで、充分濡らしてから固く絞る。
「自分で」
そう言って手拭いを奪い取ろうとする指を避けながら、握った手拭いを高く上げる。

「ダメなんだってば。最初は読書も禁止なんだから」
「は」
「とにかくひたすら睡眠と休養と尿チェック。少なくとも1週間はそれで経過観察よ」
「冗談でしょう」
「本当だってば。ご飯だって本当なら栄養点滴だけど、今は栄養液が手に入らないし針もないから。運んで食べてもらうわ」
「散歩程度も」
「ダメに決まってるでしょっ!」

思いっきり眉をしかめるあなたの顔を、濡らした手拭いで丁寧に拭いていく。
腎臓が悪いわりに顔色は良い。黄疸もないし、浮腫もない。
特に顔の浮腫は要注意。だからここのところ充分注意して、何度も触診してるんだけど。

思わず、そのいつも通りの顎の線をつねってみる。指の跡はつかない。
「イムジャ」
ほっぺたをつついて、目の下を圧してみても浮腫なし。

その顔を視診しながら拭き終ると同時に、私の手が握った手拭いごと大きな手に包まれる。
「どうしました」
「・・・え?」
「抓ったり突いたり」

あなたが困ったみたいな黒い瞳で、私をじっと覗き込む。
「ああ、ごめん。顔色と浮腫を診てたの。全然変わらないから」
まさか1日2日で症状改善なんてないわよね?
おとといから昨日までは、一時的とはいえ本当に辛そうだったし。
「じゃあ、ちょっと脈見せてくれる?」

その両手首に指先を当てて、誰よりもよく覚えてる、間違えるわけがないたった1つの脈を読む。
昨日気になった散脈も、細沈だった両尺脈も・・・
「・・・戻ってる」
「は」
「ううん、こっちの話。夜の間お手洗いガマンして辛かったとか、ない?」
「いえ」
「足が怠いとか、背中や腰が痛いとか」
「寝過ぎで」
「ううん。そうじゃなくて、筋がこわばるとか」
「いえ」
「じゃあ、ひとまず歯を磨いちゃおう。ちょっと待ってね」

桶の中で手拭いをすすいで、もう一度固く絞って
「これだけ、ちょっと持っててくれる?」
大きな手にその絞った手拭いを渡して、診察室の水場に桶を運んで中身を流す。
頻尿も夜間尿もなし、顔色も変わらない。浮腫もなくて、脈も戻ってる。

分からない。どういうことなの?
通常だったら入院で2週間、完治まで1か月が平均じゃないの?
昨日の簡易テストで確かに液色が変化した。ブドウ糖は出てたはず。
だから脈診と既往症とテストの結果で、急性腎炎だと思ったのに。

空の桶を持ってベッドに戻って、用意したマウスウォッシュ代わりの塩ミント水入りのコップをその唇まで持って行く。
「口に含んで、ゆすいで」
黙って従うしかないと諦めてくれたのか、あなたがコップに唇をつけると中味を口に含む。
「よーくすすいでから吐き出してね?」

口の中を充分すすいでから、あなたが中身を桶に吐き出す。
それを確かめながら歯ブラシに手作りのハーブ歯磨き粉をつけて
「じゃあ、あーんして?」
おとなしくあーん、と口を開けてくれたあなたの舌の色。
「ちょっとだけ、舌見せて?」

その声にあなたが舌を出す。
昨日確かにいつもより白淡だったはずが、今日は胖大もしていない。歯痕も舌苔もついてない。
色も淡紅に戻って、すっきりしてる。
「ありがとう、じゃあ歯を磨いちゃうわね」

そう言ってその口の中に並んだ歯を、柳の歯ブラシでこすり始める。
特に歯間と歯茎の境目は念入りに。出血もない。浮きや腫れもない。
「ねえ、ヨンア?」
歯ブラシのせいで口を開けても話せずに、その黒い瞳が私を見つめる。

「もしかして、ヨンアもX-manなの?」

私の質問に歯ブラシを突っ込まれたまま、あなたが首を傾げた。

 

 

 

 

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