2016再開祭 | 茉莉花・卅柒

 

 

したたか酔ったウンスの体が、椅子の上で揺れている。

手裏房の酒楼の東屋の中。ヨンは後悔で満たされた盃を一息で煽る。
いつ暇を告げようかとだけ悩みながらもう一度手酌でそれを満たす。

そもそも行先に手裏房の酒楼を選んだのが間違いだったのだ。

周囲は見知った顔しかない。ヒド、チホ、シウル、師叔、マンボ。
全員揃って揺れるウンスと、その向かいで無言のまま杯を重ねるヨンを見ている。

酔客が出入りを繰り返す店内。
ウンスは入った途端、一歩たりとも動くものかとでも云う顔でひたすら呑み続けていた。

幾度も制止の声を掛けた。
最後は半ば強引に小さな手の中の盃を奪い取ったヨンに、何故か恨みがましい目を向けて。

そんな目で睨まれる理由が思い当たらないとヨンが瞬き、ウンスは機嫌を損ねたように言った。
「どーぉせ、判らないでしょうよー」

そして今。
二人が挟む卓の上に、大きな酒瓶が既に三本並んでいる。
その隙間を埋めるように載る肴の皿に空の杯。
箸や杓文字が散乱して、あたかも数人で宴を開いたような様相だ。

機嫌を損ねた時のウンスの酒癖が此処まで酷いとは知らなかった。
自分の手落ちだとヨンが臍を噛んでも既に遅い。

ウンス本人は覚えていないようだが、重ねた杯の数は相当なもの。
「ヨンア、そろそろ連れて帰れ」
斜向うの卓に陣取り途中までウンスに付き合い呑み交わした師叔が、妙に酔いの醒めた声で言った。
「さもなきゃ二人とも泊まってけ。離れの部屋があるだろ」

確かにウンスはもう歩いて帰るのは無理だろう。
しかし、この好奇の視線の中で夜を過ごすのはもっと厭だ。

ヨンは東屋の向こう、来た時より深くなった闇に眸を遣る。
師叔の提案を受けた今が良い契機。
椅子を立つとウンスの脇に回り、その肘を緩く握りゆっくり立ち上がらせた。
「邪魔したな」

懐から銭を卓へ置き歩き出そうと支えた手が、勢い良く振り払われる。
ヨンは驚いて空になった自分の掌を眺め、そして次にウンスを見た。
「帰らない!」

膨れた頬で叫ぶと、今立ち上がったばかりの椅子にまた腰を下ろし
「帰らない!」

そう言ってウンスが卓の盃へ注いだ酒瓶の中身は半分近くが卓に零れて伝い、縁からたらたらと床へ流れ落ちる。
「ああ、動くんじゃないよ天女!」

マンボが大声で叫ぶと椅子を蹴り立ち、慌てて厨へ駆け込んだ。
「動けないもん」
厨へ飛び込んだマンボの背を見ていたウンスがぽつりと言った。
「動けないんだもん」

まるでその卓の縁から流れ落ちる酒の滴のよう、ウンスの瞳から涙が零れ落ちる。
師叔は突然のウンスの泣き顔に、酔いで充血した目を剥き出す。
「て、天女」

師叔の向かいに座ったチホが驚いたよう、騒々しく椅子を鳴らして立ち上がる。
「どうしたんだよ、おい旦那!」
続いてウンスに駆け寄ろうとするシウルの襟首を、無言の大きな手が硬く握って止める。
シウルは首根を掴まれた猫のように手足だけを動かすが、大きな拳は全く揺るがない。

「師叔」
夏夜の闇より重い声で、シウルの動きを封じたヒドが唸る。
その声に師叔も黙って席を立つ。
「おい。チホもシウルも、もう行くぞ」

そうでも言わなければ、ヒドは吊し上げているシウルを遠慮会釈なく東屋から表へ放り投げる事を知っている。
師叔はチホの背を強く叩いて東屋から追い出し、自分も慌てて表へ飛び出していく。
そしてヒドは襟首を掴み上げたシウルを力任せに引き摺りながら、無言でヨンとウンスの横を過ぎ、黒染衣は東屋の外の闇へ溶けた。
「ほら天女、これで!・・・」

絞った布巾を片手に戻ったマンボはいつの間にか静まり返った東屋を見渡す。
そして何もなかったように酒で汚れたウンスの上衣を拭いた。
「・・・たまには良いさ。いつもクッパだけじゃつまんないだろ」
「そんな事ない。姐さんのクッパは最高だもん」

此処まで酔い潰れていながら会話が成るのが不思議で堪らぬ。
ヨンは、そんな女人二人を無言で見ている。
「だけど私は何も出来ない。料理も下手だし後ろ盾もない。
あの人にしてあげられることがなーんにもないの、姐さん」
「そんな事気にするタマかい、あの男が」

あの人あの男と、当人が目の前でこうして二人の話を聞いているのだが。
ヨンはそう思いながら身動きが取れずに立ち竦む。
ウンスが酔いに任せて何かとんでもない事を吐きそうで。

「結婚まではダメなんだって。抱き締めてるだけでいいんだって。
それだけじゃ自信がなくなることもあるのに、分かってくれない」
「そうなのかい」
「私、愛されてないのかなあ?あの人は本当は、それ以上の事なんて、したくないのかなあ?」
「何言ってんだかね。こんな別嬪が。笑わせるよ」

マンボは衣の染みを優しく叩くついでを装い、ウンスの手をそっと叩く。
「そんな弱腰なら天女から見限っちまいな。男なんざごまんといるんだからね、この世には」

言うに事欠き何を抜かす。
血相を変えたヨンを目で諫めると、マンボが無言で首を振る。
「あの人のせいじゃない!あの人を悪く言わないでー、姐さん!」
「ああ、そりゃ済まないねぇ」
「言いたい事がぜーんぜん伝わらないの。私の言い方が下手なのが悪いけど。
なんて言ったらいい?一緒に寝ようって言えばいい?」
「そうなのかい」
「もっと一緒にいたいって?周りの人が心配って?そう言えばいい?そう言えば伝わる?」
「そうかもしれないねぇ」
「言えないもん」
「そうかいそうかい。悪い男だよ、天女をこんなに泣かせてさ」
「違う!」

ごんと物凄い音がして、先刻卓に置いた銭がばらばら床に落ちる。
マンボもヨンもぎょっとしてウンスが卓にぶつけた頭を見つめた。

「言い方が、分からない・・・私が、悪い」

酔いどれ声が続く処を見れば、音程には酷く打っていないのか。
もう一度腕の中に抱くように立ち上がらせたヨンを、ウンスは振り払わなかった。

「可愛い女じゃないか。こんなに泣いちまって。ヨンアにゃもったいないってもんだ」

独り言のようなマンボの声に送られ、今度こそチェ・ヨンはウンスを抱え酒楼を出た。

 

 

 

 

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