2016 再開祭 | 想乃儘・捌(終)

 

 

今までの時候ならばそのまま氷雨から雪になったろう。しかしこれからはこんな日が増える。
東風に誘われた、音も無く静かに庭を濡らし始めた濃霧のような雨。
根雪を溶かす激しさからは程遠い、その雨音すら遠慮がちに降り注ぐ優しい雨。

待ち構えていたかのように膝の中のこの方が、雨の香を吸い込んだ。
「ねえ、ヨンア」
「はい」

どれ程久々だろう。こうして膝に抱いて縁側に座るのは。
素知らぬ顔をしたままで、こんな風に触れられるのを待ち続けた。
これだけで良い。この方が膝に居て下さるなら、一晩中でも胡坐をかき続けてやる。

膝の中から嬉し気に明日から暫し休暇だと俺に告げながら、この方は瞳を細くした。
「でも、おかしいの」
「どのように」

問い返す俺に小さく首を傾げると
「確かに王様も媽媽もお体の調子に問題はないんだけど・・・でも急によ?急に媽媽からお呼びがかかって。
慌てて坤成殿に飛んで行ったら、明日から10日休んで下さいって。
今まで突然そんな風におっしゃった事、一度もなかったのに」
「何より」
「やっと風邪が終息したから、明日からまた行きも帰りもあなたと一緒だって、すごく楽しみだったのに」
「すぐ帰ります」
「私、何かヘマしたかなあ。謹慎みたいなもの?」
「有り得ません」
「どうして断言できるの?」
「・・・は?」

喋り過ぎたかと口を閉ざしても、膝の中から向けられる視線は真直ぐ俺を捉えている。
「どうして私がヘマしてないってヨンアに分かるの?しばらく全然会えなかったのに」
「それは」

それはあなたに休暇を賜りたいと、俺が王様に直訴したからだ。
下手を打っての謹慎では無く、精根尽き果て立ち寝する程に頑張ったあなたへの褒章だ。

こんな話の流れになるなど。あなたに余計な心配を掛けるなど。
そんなつもりでは無かったと、今更悔いても後の祭。
「・・・ヨンア、媽媽に何か言った?」
「いえ」

王妃媽媽には暫し拝謁しておらん。それは真実だから即答する。
「本当に?媽媽に、何かお願いしてない?」
王妃媽媽には何も御願いしておらん。それも真実だから首を振る。
「とんでもない」

王妃媽媽には何もお伝えしておらん。嘘など一言も吐いていない。
俺はただ王様に御願いしただけだ。医仙に暫し休暇を賜りたいと。
真直ぐな視線で自信を持って応える俺に、未だ不安そうにあなたは頷いて下さった。
「あなたを信じる」
「はい」
「じゃあ今日は、久し振りに一緒にいられる。今までずーっと早寝した分、今夜は少しだけこうしてて?」
「はい」

ようやく甘えるように胸に凭れる小さな体を抱き締め直す。
それでも油断をすれば風邪を引き込む。この方のおっしゃる通り未だ三寒四温の早春の頃。
まして雨降りの夜では、温めるのが肝要だ。

この方が振り返った拍子にずり落ちた毛織物で、再び細い肩を確りと包み直す。
この方は大層機嫌良く、大人しく口も瞳も閉じて、この指先の動きに身を任せたままでいる。

毛織物の下にもぐった亜麻色の髪を最後に指で静かに抜き、片側の肩へと流して梳る。
その指が止まってようやく、俺の胸へ預けていた端正な横顔の瞳が開く。
今宵の雨のように遠慮がちな優しさで、この眸を見上げる視線。
どうしたのかと覗き込めば、細い指先が伸びて来る。

やはり未だ夜は冷えるのだと改めて思う。頬に触れた指先がとても温かいから。
寒くはないかと眸で問いながら、その指先を上から包む。
いや、問うているのは口実かもしれん。それを口実にして、指にも触れたい。
きりがない。ねだっている。待っている。触れて欲しいと。

兵糧攻めに遭った時や、兵站の道が絶たれた戦場での飢えや渇きや焦りすら思い起こさせる。
下世話な慾や体だけならいつか必ず飽きが来る。心が絡めば決して捨てられぬ想いが募る。

無言で木陰から見ていた時も、迂達赤の私室で寝台に並んだ時も。
その帰りを一日千秋の想いで待った時も、今こうして娶った後も。
己自身が呆れる程に、何一つ揺らがず何一つ変わらない。

無鉄砲に突走れば腹が立ち、泣いていればどうにか泣き止ませたい。
笑顔が少なければ笑って欲しく、無駄口が過ぎれば黙らせたくなる。

喧しくとも静か過ぎても気が休まらず、周囲の視線が気に掛かる。
男が寄れば蹴り飛ばしたくなり、ただ俺の事だけ見て欲しくなる。

凍った根雪のような俺をこの優しい雨のように溶かしてくれた。
生きる熱さを忘れた俺に、生きて行く意味を与えてくれた女人。
厳冬の最中にいた俺に春を思い出させてくれた方だから、こんなに春に急かされるのだ。
音に、彩に、温もりに、香に、気配に敏感なのだ。
早く来いと指折り数えて、待ち続けてしまうのだ。

この方はそうだ、春に似ている。
夏にも秋にも、そして冬にも似ているが、春に一番似ている。
唯一つ厄介なのは、人は長く厳しい冬の間誰もが等しく春を待つ事。
その冬が雪深く昏い程に、春の温かさと安らぎを心から待ち望む事。

思わず背筋が寒くなる。そんな風に思い詰めるのは俺だけではない。
高麗の冬は余りに長く厳しく、春は短く遅い。
一度春の温かさを知れば、出来るだけ早くそして長く手許に留めたいと誰もが欲する。

背後から細い腰に廻した腕に思わぬ力が籠る。
何処へも行かせない。逃さない。他の誰がこの春を望もうと。
決して譲らないときつく抱き締め直す力に驚いたように、あなたが肩越しに振り返る。

情けない程に自信が無い。あるのはただ慾だけで。
それでも決して離さない。この春が此処にある限り。
「ヨンア?」

呼ばれても呼び返せずに、鼻先が触れ合う距離で見つめ合う。
これ程近くで互いの息を交わしあって、それでも不安だなど。
その瞳の中に愛おしさ以外の何の色も無く、己以外の誰の姿も映っていないのが判っているのに。

あまりに見つめ過ぎたのか、白い頬が朱に染まる。
「・・・えーっと、あのね。野菜をね?」
触れた鼻先を誤魔化すように、この方は腕の中で少し身を引きつつ言った。
何故だろう。ようやく近くなったのに、こうしていろと言ったのに。
何故手を伸ばすと逃げるのだろう。
ようやく膝に抱けるのに、何故野菜の話になるのだ。
「・・・野菜」
「こないだ、ほら、ネギとかショウガの話が出たでしょ?結局の問題はみんなタネを取っとくゆとりがないって事。
そういう人たちに予防薬代わりに配るのも大切かも。来年の冬には、それも考えてみようと思うの」
「はい」

確かにゆとりがないからこそ、育てる前に食糧として腹に納まってしまう。
冬の為に蓄える事が出来ず、収穫した端から取って置けずに喰ってしまう。
それを根本から変える必要もあろう。民が自力で食糧を確保出来るようになるまで。

それで終われば異存はなかった。抱き締める腕にもう一度力を籠めた俺を無碍に振り切るが如く、この方の口は止まらない。
「それでね、あと、傘をね?」
「・・・笠」
「ああ、違う。ヨンアが考えてるのは、こういう」
細い腕が御自身の頭の上でなだらかな坂を描く。
始まった。この春は何かを隠す時だけでなく、照れが過ぎても急に饒舌になる。

「こういう三角の、頭から被るのでしょ?あれもいいんだけど不安定だし、ちょっと風が強いと飛んじゃう。
第一肝心の頭頂部が守れないわ。びしょ濡れになるじゃない?私の時代に使った、普通のというか、この時代ではそっちが普通じゃないけど、傘を」

ほんの暫しの間、春の雨が辺りを静かに濡らす間だけで良い。
黙って抱かれていてくれと願うのは俺の慾か。身に余る贅沢か。
そんな心裡など斟酌する風もなく、この方は身振り手振りで懸命に話を逸らす。
二人の間の甘い温かい気配を、どうにか振り払わんとばかりに。

「でね?考えたの。傘の構造なんてすごくシン・・・簡単だから。竹と油紙があればできる。
張替が必要だから贅沢品になっちゃうけど、でもいざ雨の日に外出ってなれば、あったらすごくおしゃれできっと可愛い。
媽媽にプレゼントしたいな、可愛い柄で。それで叔母様には素敵な渋い色の染め紙で。
あ、柄を大きく切り取ってパッチワークみたいに張り合わせてもきっと素敵よねー?」

無ければ作れば良い。この方の事だから確かに役に立つ物だろう。
明日より暫し時間がある。市を廻り必要なものを手に入れれば良い。
だからせめて今宵は、俺の事だけを考えて下さらぬだろうか。

俺とて辛抱していた。典医寺の門をくぐらず、この方の言葉の通り。
心配は掛けまい、俺の事で煩わせまい。そう思い再訪の許しを待ち続けていた。
宅に戻れば言われた通りに手を洗い、嗽をし、着替えまでして。
夜半に起こすのが怖いが為に曙の時刻まで瞼への口づけすら堪え。
だから今だけで良い。そんな心を少しだけ汲んでくれぬだろうか。

「本当はヨンアに作りたいけど、あなたは嫌がると思う。傘を持つと、どうしても片手は塞がっちゃうから。
剣を持つのに、きっと邪魔になっちゃうでしょ?」
焦れ焦れとこの方の声の切れ目を待っていた俺はそれを逃すまじと頷いて、声を終わらせようとこの方を三度強く抱き締め直す。

野菜の件や種の分配は、次の冬が来る前に考えれば良い。
確かに民が健やかである事がこの方の望みだろう。しかし分配については俺達の一存ではどうにもならない。
笠も紙もどうでも良い。春雨ならば濡れれば良い。
そんな便利なものを作られては、雨を口実にこの方を上衣に包む事が出来なくなる。
不便で良い。抱き締める名分があり、そして今宵の雨を黙って共に眺められるなら。

「それでね、次に考え」
毛織物を剥いで動き続ける小さな両掌を、そっと片掌で纏めて包む。
そのまま毛織物の下へ納め直し、そのままもう片掌で細い顎を掴む。
顔を上向かせると虎に睨まれた兎のように、動きを止めた丸い瞳が俺の眸を覗き込む。

こんな時なのだ。何の罪もないこの方を無理矢理捻じ伏せるような気分になる。
勝てる筈の無いか弱い者に無体な戦を仕掛けているようで、心も体も痛むのは。

「ヨンア、あのね、それで」
けれどほんの時々で良い。その唇を閉じて、受け入れて欲しいのだ。
俺の慾も、業も、ただ黙って雨を見たいと思う心も。

次の雨も、その次の雨も、雨は一生あなたと共に見ると決めている。
時には飽くほど話しながら眺めよう。
時にはふざけ合いながら眺め、時には別の景色の中に降る雨を眺める事もあるだろう。

それでも今宵の早春の雨は今宵にしか降らない。
これをあなたと共に眺められるのは、生涯で今宵一夜だけだから。
だから今宵は黙ったままで優しい雨を眺めたい。互いの息が交じり合う距離で。

天界ではこんな時、男はどんな風に女人に伝えるのだろう。
その流儀が判らぬから、いつも此処までで戸惑ってしまう。
無言で唇を盗むのだろうか。それとも許しを乞うのだろうか。
前者では無礼で、後者では間抜けに思うのは俺が下界の者だからか。

「雨を」
「はい?」
唇の先が触れ合う距離で、他に言葉もないから言ってみる。

「雨を聴いて下さい」

聴くなら他の音を立ててはいけない。
照れ隠しの高らかな声もその間は控えて頂く。
ようやく心が伝わったか力づくで唇を塞ぐ無体をする前に、賢いあなたは唇を閉じ、そして長い睫毛を伏せる。

この腕に体を預け、力を抜ききって胸に背を凭れ、半ば眠るように。
そんな俺達を包む静かで優しい雨の音。

やがてその体に少し力が戻る。あなたの長い睫毛が夜の中で上がる。
居間からの蝋燭の淡い灯を映し、視線が俺へ流れて来る。

「春の音がする」

それ以上の言葉は無い。ようやく力の抜けた紅梅のような唇。
春の雨に咲く、何より大切な紅い花。
散らぬように細心の注意を払い、想いの儘にならぬその唇に、俺はこの春初めての口づけを落とす。

 

 

【 2016 再開祭 | 想乃儘 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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