2016 再開祭 | 金蓮花・拾

 

 

幾つの丘を抜けただろう。
幾つの河原を通り、林道を抜け、人目を避け邑を素通りしたろう。

先刻の小休止では高かった秋の陽が、見る間に傾いていく。
西空を染める夕陽、それでもまだ邑に入れば人目に付く。

食いしん坊のあなたが飯の事すら言わず、ただ黙々と従いて来る。
「陽が落ちれば近くの邑に入ります。其処で飯に」
「ああ、言わないで!」

林道を歩く頬が紅いのは、足許の紅葉のせいか傾いた陽のせいか。
飯の話でもう暫し堪えて頂こうと持ち掛けた俺に、あなたの悲鳴のような声が返る。
「・・・何です」
「さっきからお腹は空くし、ノドはカラカラだし。ねえ、将軍?」
将軍と呼ばれ驚いて、横のあなたを振り返る。

「将軍では」
「今はね?でもあなたはこの後、立派な将軍になるの。私の世界ではみんなが知ってるくらいの偉い大将軍よ。何度も言ったのに」
「・・・無理です」

この呆れ顔をどう判じたか。あなたはむきになったように大声で言い募る。
「何よ、私は天人なんでしょ?私の予言を信じてくれないわけ?」
「信じます。将軍にはなれませんが」
「なるんだってば!」

なれる訳が無いんだ、イムジャ。
何故なら俺は、大き過ぎるものを捨てて来たから。
そしてそれに悔いが無いから。戻るつもりも戻れる訳も無いから。
「イムジャ」
「なあに?」
風の中に漂う水の匂いに引かれ、その手を引き林道の細道を下る。

林道の坂を下り切れば、目前に小さな川が流れている。
暗くなる前に咽喉を潤さねば。
暗くなってから足許の覚束ぬまま、川辺に下りる訳にはいかん。
「飲んで下さい」
「・・・飲めるの?」

川辺で流れを指す俺にあなたが恐る恐る尋ねる。
これ程澄んだ流れだ。頷く俺に、横まで来たあなたが流れを覗いて首を傾げた。
「但し飲み過ぎず。陽が落ちれば冷えます」
「明日からは先にどっかでお弁当と水筒買って、持って歩こう。ね?」

あなたらしい言葉に曖昧に頷き、周囲の気配に気を配る。
川音に紛れ怪しい足音が、夕陽に紛れ怪しい影が近付かぬよう。
この手からあなたを奪う者は誰であろうと決して赦さぬ。

「近隣の邑までの辛抱です。歩けますか」
「うん」

川辺に屈むあなたが小さな掌で掬った水を含み終えたのを見計らい、声をかける。
差し出したこの掌に手を預け、足許の河原の石を鳴らしたあなたが立ち上がる。
掬った川水のせいか、指先が冷たくなっている。

今宵の寝床。冷えたあなたが温かく一晩を寝める処。
人目につかず、近付く者がすぐに判り。
裏や横から攻め込めず、表からの気配にのみ集中できる処。
そんな場所を考えつつ、釣瓶落としの秋の夕陽の中を急ぐ。

あなたを護れる仮初の宿。昏い夜を遣り過ごせる処。

この掌に握る鬼剣の重みを確かめ、夕暮れの歩を速める。

 

*****

 

典医寺から持って来た荷物を枕に、床の上に寝転がる。
何年も人が住んでなかったみたいな、埃っぽくて家具もない、半分崩れかけた家の中。
今にも落ちそうな窓枠の向こうにはもう半分葉の落ちた木の影と、白い月が見える。
「辛抱を」

私が口を開くより先に、あなたが私の横に座りながら小さく頭を下げる。
「逃避行だもん、ぜいたくなんて言わないわよ」
私が首を振ると、
「目に付く故、火は焚けず」
「秋でよかったわね。冬なら風邪ひいちゃう。でもあなたが風邪をひいたら私が治すから、安心して?」

笑って言うと、月明かりの中であなたが目尻をほんの少しだけ下げるのが見える。
「はい」
「あ」
思わずその瞳に呟くと、不思議そうに訊くあなた。
「何ですか」
「久し振りに見た気がする。笑った顔。ずっと緊張してたでしょ?」
「・・・いえ」

そんな嘘が通ると思ったら大間違いよ。私だって見てるんだから。
いつだってあなたの横で、あなたの顔を。
忘れないように。離れても、どこに行っても思い出せるように。
だから出来れば、笑った顔をたくさん覚えていたいって思うの。
あなたのあの声だけは、きっといつでも思い出せるはずだから。

何を。何です。何をしてるんですか。

「ねえ、チェ・ヨン将軍」

反論は諦めたのかしら。あなたは溜息をつくと首を振って言った。
「・・・何です」
「それが聞きたかっただけ。お休み」

そう言って体を丸めて目を閉じる。
あなたは何も言わずに、静かに息を殺すようにじっとしてる。
そしてどれくらいたったんだろう。窓の外の月が少し動いた頃。

あなたは物音を立てずに立ち上がると、黙って窓の横に歩いた。

ボロボロに朽ちた木枠の窓の外、月の光の中、その瞳が遠くを見てる。
月でもない、木の影でもない。
最初は敵を警戒してるのかと思った。でもそうじゃないわね。
それならきっとこの家の、1つしかないあの扉を気にするはず。

少しでも動けば、まだ起きている事がバレそうで息をひそめる。
真っ暗な家の中、窓からの月明かりで盗み見るあなたの横顔。

あっちは、私たちが来た方角?あなたの視線の先にあるのは、きっと私たちが出発した場所。
王様と王妃様がいる、叔母様や迂達赤や手裏房のみんながいる、チャン先生たちがいる、もう私が戻ることはない皇宮。
私は最初からよそ者だった。ただ連れて来られただけ。自分の意志じゃなかったし、来たいと思った事もない。

来たいと思った、事もない。

自分の言葉なのに。正直な思いのはずなのに。

なのに何でそう思った途端に、こんなに心が痛いの?

あなたにバレないように、自分の上着の胸をぎゅっと握る。
帰るだけ。最初の約束通り。そしてあの男に打たれた毒の治療に。

帰ればこんな毒、血液検査1回と血清注射1本で治療できる。
この世界でどれだけ偉そうなこと言ったって、あの男の毒なんてその程度。科学の進歩をバカにするんじゃないわよ。

だけど、そんな世界でこれからも生きてくあなたは?

風邪なら良い。誰だってひくし、回復する。
敗血症まで驚異の回復力で乗り越えたあなただから、私がいなくても保温と保湿に気をつければすぐ治る。
だけどもし、大規模な戦争になったら?外科手術の技術は?
チャン先生がどんなすごい医術を持ってたって、1人きりで重症患者相手にどこまでオペが出来るの?

トリアージの判断は?第一そんな概念自体あるの?
この人はいい、きっと高麗にとって大切な人だから、優先的に治療を受けられるはず。
だけどこの人の性格なら、それを拒否することだって充分あり得る。
先に他の人を診ろって。自分はあとで良いって。

それで万一、手遅れになったら?

そしてみんなは?王様は?王妃様は?迂達赤のみんなは?叔母様たちは?
笑って小さい頃のこの人との思い出を教えてくれたテマンくんは?
あなたが大切にしてる、そんなたくさんの人たちは?

息が乱れないように。起きてる事がバレないように。ただそれだけを考えながら、自分の呼吸を整える。
その瞬間にあなたが振り向いて、寝ている私のところにすごい速さで戻って来る。
そしてそのまま横に膝をつくと、この髪にそっと指先が触れる。
ごまかせるわけなんてない、あなたが心配そうに体を丸めた私を覗き込んでる視線を感じる。

髪に触れた指が次に私の額に伸びる。きっと起こさないようにうんと気を付けてるんだろう。
大きな手のひらが、優しい指が、額の熱を確かめてすぐに離れる。

声なら思い出せる。笑顔だけ覚えておきたい。
だけどこうやって触れてくれる指、木の下で寄りかかれる肩を、離れた後はどうやって覚えておいたらいいの?
私に熱がない事を確かめた真っ暗な家の中、やっと聞こえるその優しい溜息をどうやって覚えておけばいいの?

私の前でも滅多に見せてくれない、意地っ張りなあなたなのに。

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です