兵の安否を確かめに行った奴らからの報告はまだ届かない。
ウンソプが部屋を出て先刻からの騒ぎの収まった部屋内は、突然の静寂に沈み込む。
「ウンスさん・・・」
床に腰を据えたままのカイがこの方を見上げて呼んだ。
この方がその声に呼ばれるように床のカイへ再び屈む。
「ああ、ごめん、もう立って良いわよ。立てないほどの傷じゃないでしょ」
「ああ・・・うん」
目を合されて嬉しいか、カイは立つ気配も無いままこの方の瞳を覗き込む。
「本当にドクターなんだね、ウンスさん」
「だから言ったでしょ。疑ってたの?腕の手当てもしたのに」
「うーん。何かさ・・・」
何を考えているのか、カイの目から読み取る事は出来ない。
奴はただ不思議そうな、懐かしそうな、そんな目付きでこの方の瞳を覗き込んでいた。
火の消えた庭から鼻を付く煙の匂いだけが漂って来る。
今宵の雪は未だ降り出さない。雲だけが黒い空に厚く重なっている。
*****
君と見た最後の朝を覚えてる。
息は苦しくて、握ってくれる手が嬉しくて、何か言わなきゃと思う。
優しい言葉、感謝の言葉、君の好きな歌の一小節。
いつも君が口ずさんでいる、俺の大好きなあの歌。
でも息が苦しくて声にはなりそうもないから、笑いかけてみる。
ありがとう。大好きだよ。ずっとずっと大好きだよ。
だから泣かないで。君のせいじゃないんだ。きっとこれが運命だから。
自分の頭の中にある風景なのに、自分が見ている景色なのに、どこか微妙にずれてる感じがする。
視差だ。パララックス。
知らない部屋の粗末な布団に横たわってる虫の息の俺。
それを何処からか俯瞰しながら不思議がってる別の俺。
この目で見てるのはウンスさんだ。それは間違いない。
あの横顔、伏せた視線、優しい声。何度も触れて確かめてくれる指先。
そのたびに横たわる俺へと落ちる柔らかい髪。間違える筈がないのに。
俺の心の中には、俺じゃ感じようもない程濃度の高い感情が溢れてる。
今、俺は生きたい。この人の為に生きたい。
俺が今ここで死んでしまったら、きっと優しいこの人はとても悲しむ。
毎朝俺の様子を見て、毎日食べられない俺の口に食事を運び、毎晩碌に眠らずに看病をしてくれた。
時々男が二人やって来た。
年寄りの男に俺を診せて、君は悲しそうな顔で部屋の隅に座ってた。
その年寄りは丁寧に俺を診察すると、優しく笑って部屋を出て行った。
その後も若い男が時々一人でやって来た。
君の名を低い声で呼んで、何か手伝えるか尋ねる声がした。
そのたびに君は冷たく、男を追い払った。
俺の事を誰にも見せたりしない。他人に委ねたりしない。
それだけで俺は、充分君に守られてる気がしたんだ。
「星驰。苦しいね」
シンチーと呼ばれて、俺は首を振る。
そんな名じゃないと首を振ったつもりなのに、君は違う意味に受け取ったらしい。
「ごめんね。何もしてあげられなくて」
そう言われてまた首を振る。そんな事はない、君は出来る事をすべてしてくれた。
俺?そう感じてるのは俺なのか?
毎日ウンスさんに様子を見てもらった事も、毎日ご飯を食べさせてもらった事も、眠らせてあげられないような病気やケガもしてない。
なのに確かに思ってる。ごめんね。そして、ありがとう。
息は胸を抑えつけるくらい浅く苦しく、見ていたいのに君の顔は遠く霞んでいく。
俺こそごめん。君を残して行くこと。優しい君を傷つけて行くこと。
君はすべてを叶えてくれた。
最後まで淋しくないようにこうして手を握ってくれているのに、強く握り返す力も残ってない。
元気になったら出掛けよう。世界で一番きれいな朝日を見に行こう。
君の大好きな雨を見に行こう。春には花を、冬には雪を見に行こう。
この部屋じゃなく外に出よう。大きな声で好きな歌を一緒に歌おう。
賢い君の為に、俺はうんと勉強するよ。
今度は君に心配させないように 体も鍛えて丈夫になるよ。
誰にも気づいてもらえなくて良いから。
次に君だけが気付いてくれるように、俺らしく努力して頑張る。
もう一度必ず逢いに来る。それまでは今朝の君を覚えてる。
全て忘れないようにするよ。何もかも、出来る限りを覚えておくよ。
大好きだよ。次に逢ったら必ず言うよ。どれほど君に感謝してるか。
そう想いながら目を閉じる。
最後の姿が泣き顔にならないように、涙を零したままなのに頑張って笑ってくれた君の笑顔を、瞼と記憶に焼き付けて。
チャリン、と音がしたと思ったら、足元に500ウォンが転がって来た。
「・・・どうしたの?」
自販機の裏に隠れてたのは、普通は絶対に大人が入って来ないからだ。
急にそう声を掛けられて驚いて顔を上げたら、お姉さんが1人。
自販機の脇から苦しそうにこっちを覗き込んでた。
「ねえ、そこに500ウォンない?落としちゃった」
見たこともないほど田舎っぽい三つ編みで黒ぶちメガネのお姉さんが俺に聞く。
「あるよ」
「取ってくれないかな?飲み物買いたいのに、小銭がそれしかなくて」
仕方なく足元の500ウォンを拾い上げて、渋々自販機裏の隙間を出る。
「はい」
お姉さんに手渡すと黒ぶちメガネの奥の目が三日月みたいに笑った。
「どうもありがとう。かくれんぼ?」
「・・・そうだよ。イヤだって言うのに、無理やり連れて来られたんだ」
お姉さんは俺の前にしゃがみ込むと、自販機の裏の汚れのせいでホコリだらけの俺の頭を優しく撫でる。
次にわざわざハンカチを出すと、同じくらい汚れてるんだろう俺のほっぺたを拭いてくれた。
見知らぬ他人にそんな事された事なんてない。親にすらされないのに。
驚いて慌てて避ける俺を気にもしないみたいに、そのお姉さんは笑う。
「病気だから来たんでしょ。でも楽しい所じゃないわよね」
「違う。病気なんかじゃない。俺は健康だよ。行きたくないのに留学しろって。だから健康診断を受けろって」
「留学?きみ、いくつ?」
「来年から高校」
「高校生から留学かあ。大変ね。でも羨ましいって思う人も、きっとたくさんいるわよ」
「羨ましいって思う奴が行けばいいんだ。俺は嫌だ」
「うーん、そうか。でも若いうちにいろんな世界を見られるのは、きっといつか役に立つはずよ。
私はそんなチャンス羨ましいけどな」
三つ編みメガネのお姉さんは本当に羨ましそうにそう言うと、自販機に音を立ててさっきの500ウォンを落とした。
そして俺の方を見ると何故か突然目を輝かせて
「ねえ、好きな飲み物買って良いわよ」
そう言って俺の横を擦り抜け、慌てて待合室の方に走り出す。
「先輩!!」
「何だお前、こんな所で何してるんだ」
「今日は見学なんです。専科決定の下調べ」
「胸部外科じゃないのか?」
頭も感じも悪そうな白衣の男を嬉しそうに見上げて、声を交わす三つ編みが遠くなって行く。
最後に振り返るとまだそこに立ってる俺に小さく手を振って、影は廊下を曲がって見えなくなった。
何だったんだろう。そう思いながら、光ってる自販機のドリンクのボタンを適当に押した。
重たい音で落ちて来たドリンクは、取り出してみたら苦手なオレンジジュースだった。
でもその日飲んだオレンジジュースは、何故かおいしくて。
俺は胸ポケットに入ってたスマホのイヤフォンを耳に刺して、指先で画面を操作しながら聞きたい曲を探した。
これでもない。これでもない。
入ってるのはお気に入りの最新の曲ばかりなのに、今聞きたいのはそうじゃなくて・・・
懐かしくて、メロディーも判ってるのに、ここには入ってない、そんな曲。
「坊ちゃん、こんな所にいらしたんですか。行きましょう、ドクターがお待ちです」
母さんの秘書が探しに来るまで、俺は明るい病院の廊下でどこかにさっきの三つ編みがもう一度見えないか、頭の中に流れる曲を追い駆けながらオレンジジュースを飲み続けていた。

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