2016 再開祭 | 婆娑羅・26

 

 

手にした板を派手な音で取り落とし、何故か己の頬を抓ったまま目に涙を浮かべる男を見る。
俺が屈む前にこの方が手を伸ばし、足許に転がって来たカイの板を拾い上げた。
「カイくん、気持ちは分かる。残念だけどこれ、夢じゃないのよ」

その柔らかな慰めるような声。
俺が拳で目を醒まさせてやろうかと一瞬本気で考える。
切羽詰まった時にこれ以上下らん事を考えるなと、胸座を掴み上げたくなるのをどうにか堪える。

考えるな。例えの話でも死ぬ事など。
考えるな。夢なら醒めて欲しいなど。
無駄な事など一切考えるな。頭を空にし神経を研ぎ澄ませ。
考えるならば生き抜く事だけ考えろと怒鳴りつけたくなる。

天界に天の則が在るように、高麗には高麗の則がある。
死や刺客や戦との隣り合わせで生き抜く為の則がある。

奴の落とした小さな板を拾い上げた拍子に離れた小さな手を探り、確りと繋ぐ。
今まで以上に足早になった俺に、駈けるようにしてあなたが添う。

考えろ。ただこの方を護る、そしてこの方を置いては逝かんと。
無言で横のあなたを見れば、声は無いままその瞳が微笑み返す。
戻る無言の承諾にこの心だけは軽くなる。

こうして身も心も預けられれば、俺はいつでも全てを懸ける。
其処に言の葉など挟む余地も必要も無い。
天人は不要な時に声が大きく、真に必要な時にはそれがない。

天から攫って来たばかりの時のこの方がそうだった。
仔犬のように吠えるかと思えば、借りて来た猫のように押し黙る。
この方だけかと思ったが、カイを見ればそれが天界の則だったか。

俺にはそぐわぬ世だと息を吐く横顔に、不思議そうな瞳が当たる。
「どうしたの?ヨンア」
「・・・いえ」

考えるな。今必要な事は体が教えてくれる。
心の命じるままこの方を護り、己の信じるまま剣を振るえば。
温かい手を失いたくなければそのまま進め。

少しだけ歩みを緩やかにした俺に、それ以上は問わぬあなたが笑う。
それだけで良い。こうして並んで歩めればそれ以上は何も望まない。

 

*****

 

軍議部屋に集まった面々は一渡りで見渡せる。
チュンソク、国境隊長、副隊長、天門兵舎の兵長と副兵長。
「整いました。兵らは既に守りについています」
国境隊長の声に他の面々が深く頷く。

「気を抜くな」
「はい!」
「敵は二人」
「しかし、たかが二人で大護軍に挑みますか。万一増える事は」

杞憂の過ぎるチュンソクは常に最悪を想定する。
渋い顔で眉を寄せる男に自信を持って首を振る。
黒幇が他の刺客らと徒党を組むとは考え難い。
そもそも刺客は互いに喰い合うような間柄だ。
同じ獲物を狙い、仕留めた奴が金を得る。
分け前の減るような徒党を組む算段はしない。

「乗り込んで来るのは二人に違いない。
しかし奇皇后から直々に声が掛かる程だ。油断はするな」
俺の声に居並ぶ奴らの表情が引き締まる。
「多勢に無勢で飛び込むなら得手は奇襲。乗るな。各兵守りの場所から動くな」
「はい!」
「伝令は警笛で行え」
「はい!」
「行けそうか」
「迂達赤程とは言えませんが、大護軍が此方においでの間直々に鍛錬を共にして頂きました。
これで負けては、大護軍に合わせる顔がありません」
答える国境隊長の声に、国境副隊長も兵長も副兵長も笑みを浮かべる。

「確かに。黒幇より大護軍に恥をかかせる方が、俺は怖いです」
「鍛錬の度、今日は生きて帰れんと本気で思いました」
「あの戦を共に成し遂げたんですから、今日死ぬ気はしません」

この方の帰りを待ちながら、当時元に占領されていた北方故領を奪還する戦の日々。
幾度もこいつらと共に戦場に立った。
八の基地の奪還、その戦の合間の鍛錬。
共に戦い鍛錬に汗を流したからこそ、その腕も技量も知っている。

その間皇宮に詰めきりだったチュンソクは、俺を見て嘆息を吐いた。
「・・・此方でもそんな事を」
「煩い」
「迂達赤も戦より鍛錬の方が余程辛いと身に沁みています」

チュンソクの呆れ声に国境隊が一斉に噴き出す。
「それでも兵なら皆憧れます。一度で良いから鍛錬を受けたいと。
夢でも良いから同じ戦場に立ちたいと」
「ええ。で、鍛錬の終わりに後悔します」
「しかし翌日にもう一回、もう一回と思いますね」
「お前らな」
「俺達は幸せだと言いたかっただけですよ、大護軍」

部屋の中、敵を待つこの場にそぐわぬ笑いが起きる。
黙って頬杖を突き、皆の声に耳を傾けるあの方も微笑んでいる。
急襲に備えているとは思えん和やかな空気の中で
「では、俺達も配置に就きます」

そう言って頭を下げ、 国境隊長が踵を返す。
其々深く頭を下げて国境隊の奴らが続く。
隊長の開けた扉の向こう、空は傾いた西陽で赤く染まり始めている。

 

「また明日、大護軍」
国境隊長は廊下に射し込む赤い陽の中で頷いた。

「朝餉の時に、大護軍」
「厨番に豪勢な朝飯を頼んでおきます」
「大護軍も医仙様も、楽しみにしていて下さい」

国境隊の奴らが口々に言うと、笑いながら部屋を出て行った。
その約束がどれ程儚いものか、兵なら誰もが知っている。
知っているから口に出す。誓う為に。己に言い聞かせる為に。

明日の朝、必ずまた会える。

「大護軍、俺が部屋扉を」
奴らが部屋を出たのを確かめ、最後にチュンソクが頭を下げた。
「頼む」
「お任せ下さい」

頷く俺に頷き返し、チュンソクは軍議部屋の奥に陣取るこの方とその卓向いに腰掛けたカイに笑いかける。
「医仙、必ず大護軍の声に従って下さい。カイ、大護軍から離れるな」
「うん。ありがとう、チュンソク隊長」

あなたが微笑みながらチュンソクへと声を掛けた。
カイは何も言えない様子で頭を下げる。
チュンソクが部屋を出て行くのを目で追ったカイは、扉が閉じた途端に口を開いた。
「なあ。何で奴らはあんたの事が、あんなに好きなんだ?」

厭味という訳でも無いらしい。その目は本当に判らぬように惑っている。
「俺達がこうやって部屋にいる間に、他の奴らが全員戦線離脱してたら?
もし口裏合わせて全員で兵舎から逃げ出してたら、俺達気付かないよな?
人間まず自分の命を守るのが当然だろ?誰かの為に命かけて戦うって、美談だけど実際には綺麗事だろ?」
「ああ」

戦は知らずとも、人の心の機微に疎い訳では無いらしい。
尤もな言葉に頷いて腰掛けるこの方の許へ戻り、横の椅子を引きどかりと腰を降ろす。
其処から腕を組んで卓向いの男を見れば、奴は焦りを隠せずに硬い顔で言い募る。
「じゃあ実際に敵が侵入して来た時、兵舎に俺達以外いなかったら?もぬけの殻だったらどうすんだよ」
「・・・さあな」

寧ろそんなに賢い奴らなら胸は痛まん。
命を大切に立ち回れるなら心配はせん。
そうでないから心は痛む。一人残らず帰すと誓う。そして日々死なぬ程度の鍛錬を重ねる。
俺にはそのやり方でしか、あの馬鹿どもに報いる道が判らない。

いっそ俺を捨てて逃げれば諦めもつくのに、明日になれば奴らは笑って何も無かったようにまた横へ従く。
そしてその命の終わりまで俺を呼ぶ。
大護軍。
それ以上の声は無い。呼ばれる度に新たに誓う。
俺の姿を見ろ。声を聞け。お前達は俺が背負う。

俺の兵に負け戦は似合わない。この天の戦女神を、高麗の旗印に掲げる以上。

 

 


 

 

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