2016 再開祭 | 金蓮花・丗陸

 

 

チュンソクも戻られた王妃媽媽を見て死ぬ気で走ったのだろう。
ほんの僅か坤成殿前で佇む間に、回廊を渡り来る人の気配が寄る。

その角を曲がり最初に見えたのは靡く黒絹に金の縫取りの光る龍。
それを召された王様が蒼白な御顔で真直ぐ此方へと歩み寄られる。
そのすぐ後ろを歩む跳ねるような小さな体、紅い髪。

こんな時だというのに安堵で膝が崩れそうになる。
王様が守って下さったのか。だから帰って来られたか。
それならば良い。もう他の事など考えられない。

ただあの王妃媽媽の御様子。
医の心得の無い俺が何かを言う事は出来ずとも、あなたを傷つける事が起きるのは辛い。

あなたはおっしゃった。そしてその命を懸けて俺を止めた。
戻ろう、戻ろうと。戻れば王妃媽媽が助かるからと。
そして戻った。だからこそ王妃媽媽はこうして救い出せた。

しかし御懐妊を聞いたあなたの様子。早過ぎる、そう言った声の響き。

もしもこの御懐妊も天の手帳に記されていたとすれば、あなたはあれほど驚いたろうか。
そして全てを言い当てるあなたの天の手帳に、此度の御子の生誕が書かれておらぬなら。

そう考える俺の目前、王様は脇目も振らず坤成殿の扉を開く。
その扉奥から対応した叔母上は言い辛そうに淀みつつ
「王様、今は・・・」
そこまで言って続く言葉を呑む。

「王妃に何か」
王様の抑えた不安げな声に
「医仙に診察をお願いしたく」
王様と共にいらしたあの方へと水を向ける叔母上の声に、
「王様はここでお待ちください。トギ、一緒に」

そう言ってその場のトギだけ連れ、あなたが開いた扉前に立ち尽くす王様の脇から殿内へ滑り込む。
呆然と室内を覗き込む王様の御前、扉は女人らだけを部屋内へ残すと、最後に頭を下げた叔母上の手で再び静かに閉ざされた。
必死に御気持ちを鎮められるよう肩で息を繰り返す王様がようやく閉ざされた扉から目を移し、その横に佇む俺をご覧になる。

男とは。 そして女人とは。
背負うものが違おうと、そして立場が違おうと。

護るとは。 そして護られるとは。
一旦心を決めた女人には、到底敵うはずもない。

恐らく今王妃媽媽は、そしてあの方は、そして叔母上もトギも。
閉ざされた扉の向こう、女人として戦に挑んでいるに違いない。
ただ祈るしかない。男の己の成せる処で、大切な方を精一杯護り抜く為に。
心も体も傷つかぬよう。傷ついたならば己の全力で癒せるよう。

俺を見る王様の御目、返す言葉すら持たず唯それを見つめ返す。
王様も同じく御言葉は無いまま、もの想うよう視線を逸らされた。

 

*****

 

「・・・医仙」
その御声を聞けただけで、もう充分。
お話は出来る。私を見て正しく呼べる。意識はしっかりしている。
「診察しましょう。ゆっくり深呼吸なさってくださいね」
そう伝えて、まずは王妃様の脈を取る。

チャン先生に教わって何度も計っていたいつもの脈とは、明らかに強さも速度も違う。
「ありがとうございます、王妃媽媽」

次に王妃様が横になったベッドの絹のブランケットを静かにめくる。
「ご不快かもしれませんが、大切な診察なので・・・少しだけガマンして頂いて良いですか?」
「はい」
王妃様は素直に頷くと、私を信頼するように目を閉じて後はもう何もおっしゃらない。
身に付けていらっしゃるその部屋着の裾をそっとめくった瞬間。
「・・・トギ、止血と造血に効く薬草を」

トギも横から王妃様の衣服の下のお体を確認すると、すぐに黙って頷いた。
「すみません叔母様。布の厚いものを、何枚か」
あの人の叔母様はそれに頷くと、すぐに部屋の隅の衣装ダンスへと走って行った。

出血。私は専門医じゃないけど、この量、そしてその内容物。
正確に確認する方法があるかどうかは分からないけど、多分出血内に胎嚢も含まれていると思う。

「王妃媽媽。少しだけお話を聞いても良いですか」
確認後の部屋着をしっかりと戻し、そっと王妃様に声を掛ける。
「吾子は・・・」
「・・・助かりませんでした」

王妃様はそこで目を閉じたまま、口元を両方の手で押さえた。
そこから飛び出してしまいそうな声を、必死でこらえるみたいに。
「少しだけ伺っても大丈夫ですか?今は辛ければ、後に」
王妃様はお首を小さく振ると、話す意思表示のようにその両手をそっと下げる。

「何があったんでしょう」
「・・・伽藍に閉じ込められました」
「はい」
「水だけが置いてあり、それを飲んでから昼夜の区別もつきにくく。ただ眠く、声も出ず体も動かず、頭が確りせず」

催眠作用、脱力、倦怠感。意識混濁。睡眠薬の強いものだろう。
流産を誘発するほど強力だったのかもしれない。もちろん妊娠初期にそんなものを服用するなんて言語道断。

あの男、本当にどこまで汚いことをすれば気が済むの?
それとも本当に殺す気だったの?王様の御心も、王妃媽媽も?

言ってやりたい。あんたが何をしたってムダよ。21世紀の歴史は語ってる。
恭愍王と魯国大長公主。
高麗末期、悲しいけれど誰より愛しあった王様と王妃様として歴史に残っている。
あの人もそう。
韓国海軍の戦艦に名前が残る、お父さんの金言が歌に残るくらいの有名な大将軍。
剛直にして忠臣、なおかつ清廉って言ったら、韓国人はみんなあの人の名前を、チェ・ヨン将軍を連想する。
キチョルですらちょっとは残ってるわ。元に送られた妹が奇皇后になったお蔭だろうけど。
それでさんざん横暴な事をして、恭愍王に粛清されるって。

そして徳興君。あんたの名前なんて誰も知らない。
知ってるのはせいぜい歴史学者や研究者くらいのもんよ。
あんたなんてその程度。身の程を知ればいい。歴史を変えるなんて絶対に出来ない。

怒りに震える両手をぎゅっと握りあわせて大きく息をする。
今はダメ。考えない。まずは目の前の患者、王妃様が一番大切。
「今はどうですか。吐き気や、頭痛や、眩暈は」
「だいぶ良うなりました」
「・・・分かりました。トギ、解毒で肝臓に負担がかかってるから、肝の動きも助けましょう」
「・・・医仙」

叔母様の呼び声に立ち上がり、ベッドルームを仕切る薄いカーテンを上げて外に出る。
目の前の叔母様が、手に布を持ったままで私をじっと見る。
黙ったまま首を振ると、いつもは気丈で無表情に見える叔母様の目にみるみる涙が浮かぶ。

「王妃様の手当てをします」
差し出された布を手に、もう一度ベッドルームのカーテンから中に入る。
トギの持って来た荷の中から消毒薬を使って、そして叔母様に渡してもらった布で手当てをして。
その間も王妃様は目を閉じたまま、何もお話にはならない。

「感染を防ぐためにも布は2、3時間に一度は交換します。その時にはまた伺います。
温かくして、ゆっくり休んで下さい」
王妃様は無言のままで、それでも聞いて下さっている証拠のように一度だけ頷いて下さった。
「薬はすぐに決まります。出来次第運びますね。王様に、お話して来ても良いですか?」

王妃様はベッドの上でもう一回頷くと、こらえ切れないように私に背を向けた。
でもこれ以上は私より、きっと王様の方がいい。
「王妃媽媽」

背を向けられたまま、細い肩にそっと触れる。
お返事はない。でも肩が小さく細かく震えてる。

“大丈夫ですよ”?
“またすぐに恵まれますよ”?

私がいくら気休めの言葉を伝えても、今の王妃様の心には届かない。
私が出来るのは王妃様の処置。流産の止血と造血。
肝代謝のアップで体内に残る薬毒の排出、子宮の状態を一刻も早く回復させること。

その細い肩を、何も言えずにそっとさする。
「じゃあ、王様にお話して来ます」
そう残して王妃様のベッド横の椅子から立ち上がると、背を向けたまま
「・・・戻って下さって、ありがとうございます」
王妃様は震える声で、最後にそれだけ言って下さった。

 

 

 

 

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