2016 再開祭 | 桃李成蹊・9

 

 

「ヨンア!!!」

ああ、この方は何処に居ろうと変わらない。
あの行儀の悪さは高麗故と思っていたが、読みが甘かった。

こうして余所の住処の扉を開く音にも、遠慮など全く無い。
大きな居間の扉前、先導する女を突き飛ばすように部屋へ駆け込む軽い足音。

その叫ぶように名を呼ぶ声だけで判る。ずっと泣いていた筈だ。
腕に飛び込まれ思い切り抱き締められて判る。走っていた筈だ。

白い額に汗の玉を浮かべ、衣越しに打つ心の臓は激しく跳ねている。
落ち着かせようと細い背ごとその髪を撫でても、全く効き目がない。

「良かった、ケガは?大丈夫?どうしたの、どうやって?!」
叫びながら慌ただしく温かな指先が俺の頬に当たり、額に触れて頸を確かめ、手首の血脈を探る。

口と瞳を閉じて下さるのはそのひと時だけだ。
満足するまで測った後に長い睫毛が上がり、この眸を覗き込む真赤に腫れた鳶色の瞳に新たな涙が溢れそうに揺れる。

「心配、した!!!」
「あ、あの」
腕の中のこの方は先刻茶碗を落とした女人の声に振り向くと、聞いた事もないような怒気の籠る震え声で言い放った。

「絶対許しません。韓流スター?ああそう、で?!それが何?!
そんなの私の大切な人を、理由も言わずにソウルのど真ん中で拉致する言い訳になんかならない!!
弁解?裁判所で聞いてあげるわ!証人?溢れるくらいいるわ!!
今すぐイ・ミンホで検索したら?トップワードよ、さっきの拉致現場が動画も写真も思いっきり見られるから!!!」

亜麻色の柔らかい髪を怒りで逆立て、この腕の中で今にも飛びかからんと身を捩り、部屋中で固唾を呑む者たちに向かってこの方が咽喉も裂けんばかりに烈しく叫ぶ。

「あの、ユ・ウンスさん」
「アンナさんから電話をもらったの。あなたが探してるって。よくアンナさんの連絡先分かったわね。知っててくれて良かった。
私も警察には行けないし、だけど心配で・・・本当に!ほんとにもう!!」
「イムジャ」
「この人が好きで有名韓流スターと似てるわけじゃないわ!元祖とか本家とかって下らないこと言いたくないけど、それは絶対、絶対この人なんだから!!
この人に何かしたら私が許さない!!」
「・・・もう良い」
俺が静かに頷くと、ようやく息を弾ませたままこの方が唇を結ぶ。

「良いですか」
これ以上俺からの返礼は不要だろう。
眸の前の俺を攫った男達はこの方の怒りの烈しさに竦んだまま、其処へ立ち尽くしている。
それなら次は涙で濡れたその頬を、この指先で拭う暇くらい与えてくれても良かろうに。

ようやく静かに肩で息をするこの方の頬を拭い、瞳を覗き込む。
「あんなを探し出したのは、この方々です」
「・・・え?」
「化粧を施す女のような男、と言ったらすぐに」
「・・・そうなの?」

俺の取り成し声にまだ疑うように、その瞳が居並ぶ顔を見渡す。
「有名なんですよ、この業界では。腕は良いけど口は悪い、ついでに男癖も悪いアンナさん」
「ミノの名前は出せなくて・・・うちの事務所名義で電話したんです。ユ・ウンスさんに連絡を取りたいって」
俺を拐かした男たちが、ようやく口を開いた。

「ウンスさん、本当にすみませんでした!」
三人の男はそこで立ったまま、この方に向けて深々と首を垂れた。
「きちんと調べもせずに、先走ってしまって」
「私の責任です、ユ・ウンスさん」

しゃちょうと呼ばれるあの女が、改めてこの方へ深く頭を下げる。
そして卓上に置いてある透明な箱から一枚の紙を取り上げ、腕の中のこの方へと差し出す。

「イ・ユンジョンです。本当に申し訳ありませんでした。決してご主人に危害を加える為とか、そういうつもりではなかったんです。
スタッフはただミンホが無断で外出したと思い込んで、連れ帰ろうと」
「すみませんでした!」
その声に男達が再び頭を下げる。

帝王学というのは古今東西変わらぬか。
周囲の者たちが全て謝罪を終えた時その居間の奥、灯篭だけの薄暗い一角が揺れる。

腰掛けた椅子から立ち上がる影が確かな足取りで俺達の前に進み、その男が頭を下げた。
「社長のせいでも、スタッフのせいでもない。全部俺の責任です。申し訳ありませんでした」

腕の中、この方が体を硬くするのが伝わる。
その顔を見、そして自分の収まる腕の主の俺を確かめ、もう一度その瞳が目の前に立つ男を見る。
イ・ミンホと名乗ったあの男を。

全く胸糞悪い。己と同じ顔でも俺ではない。
この腕に収まりながらそんな瞳で他の男を。

「おっしゃる通りです。誘拐と思われても仕方ない。俺がお2人の立場ならそう思う。証人は山ほどいるし、証拠映像には困らない。
まして愛する旦那さんがそんな目に遭わされて、俺なら許せません。だから訴えて下さい。責任は必ず取ります。逃げませんから」
「ミノ!」

俺を攫った男が吠える声に
「黙ってて」
怒鳴ったでも、語気を強めたでも無い。
むしろ穏やかなその低い声に、話を遮ろうとした男は黙り込んだ。

「ユ・ウンスさん、チェ・ヨンさん、ごめんなさい。言葉も見つからない。俺が今までしてきたことです。
だからスタッフは確かめなかった。俺がまた勝手に出歩いたと思い込んだ」
「あ、あの」

ああ、その声を聴いただけで判る。
この方が目前の男をもう許したと。

「ええと、あの」
「イムジャ」
「・・・え?」
「飯は喰えましたか」
唐突な問いにこの方が思い出したよう、腹を押さえて首を振る。
「それどころじゃなかったもの!!大体晩ご飯選びの最中に、あなたが」

散々の詫びを受けた後で攫うという言葉を敢えて避けたか、この方は一瞬言い淀むと
「・・・いなくなっちゃうから」
「本当にすみません!!」

その詫び以外に言葉はないのか、男たちが慌てて再び頭を下げる。
そしてしゃちょうと名乗る女が俺達を見て静かに言った。

「ヨンさん、ウンスさん。御詫びにもなりませんが是非ご馳走させて下さい。
そして重ね重ね厚かましい事は判ってますが・・・お願いが、あります。宜しかったらお食事の後、少しだけ聞いて頂けませんか」

その悲痛とも言える程の声の響きに、完全に怒りを忘れた鳶色の瞳が胸元からこの眸を見上げた。

 

 

 

 

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