産声こそ少し弱いものの、新生児が無事だった事。
母体にも思ったほどのダメージなく、帝王切開が間に会った事。
娩出してすぐに肺呼吸をした。
身体を確認しても発達不全、四肢欠損や骨格異常、そんな高麗で致命的になる特徴がなかった事にウンスは安心の息を吐く。
21世紀なら手術や投薬、リハビリでフォローできる部分も、高麗で同じ成果を上げるのは難しいと不安があった。
まして一度は生まれる前に、父親が捨てようとした子だ。
あの頃でさえ、周囲の評判や人目を気にして生きにくい子がいた。
今の高麗で親が望まず生まれ、先天性の障碍を持っていたら、どれほどフォローに回っても難しいと心配していたのだ。
これで後は確実な止血と縫合だと、最後の山に気を引き締め直す。
子宮。癒着防止剤の存在しない高麗で、最大限の防御措置は確実な止血。
子宮は毛細血管を焼鍼を当てて止血した後、創口を縫い合わせる。
「・・・カット」
その声に横のキム侍医が、握った直メイヤーで縫合糸を切る。
ウンスの額に浮かんだ玉の汗を、控えた薬員が握る布で拭う。
汗を拭かれながらウンスは患者の腹部を丁寧に縫合していく。
「・・・カット」
もうひと針。
慎重に毛細血管を焼き、周囲臓器や腸管との癒着のないよう確認して通し、牽いて結んで。
「・・・カット」
ウンスの世界では当然だった電メスのありがたみを実感するのは、こんな瞬間だ。
それだけではない。点滴、血圧計。何よりまず血液型判定キット。
考えなければいけない問題は山ほどあった。
チェ・ヨンを助けるのに、血液型を知らないのでは話にならない。
ああ、今はダメだ。逸れる意識をもう一度、目の前の患者に戻す。
全ての命を、全てのオペを。全ての経験を自分の目標に向かって積み上げていく。
チェ・ヨンを守りたい。自分の全てで守りたい。心もそして体も。
その為には恭愍王。そして恭愍王を守るには王妃を。
高麗でこんな自分を姉と呼んでくれる、勝ち気で素直なあの王妃。
歴史を変える事になっても、王妃の出産は絶対に無事に迎えたい。
チェ・ヨンを守り、王を守り、そして妹でもある王妃を守る為に。
「ウンス様・・・!」
その時患者の足元にいるウンスに、頭側で麻佛散の調節をしていた医官が緊張した声を掛けた。
縫合途中で手を離せないウンスに代わり、キム侍医が素早く患者の頭側へ回り込み、その耳を患者の鼻先まで持って行く。
そしてすぐに顔を上げ、そこから患者越しにウンスへ伝える。
「ウンス殿。患者の息が」
「麝香を吸入させて。量に気を付けて、お願いします」
「はい」
侍医は素早く並べた薬草の中から粉末の麝香を取り上げると、予め用意した細い竹筒へ詰め、患者の鼻へ差し込んで息を送る。
同時に患者は軽く噎せ、そして侍医は体を起こすとその手首の脈を取り、しばらく呼吸を確認すると言った。
「戻りました」
「こっちももう、縫合が終わる」
侍医が頷いてもう一度縫合糸のカットに戻った時には、残りはあと2針程度。
ひと針ずつ想いをこめる。早くふさがりますように。
「・・・カット」
良くなりますように。合併症を起こしませんように。
「・・・カット」
全ての患者に回復を。生まれる命に祝福を。去りゆく命に祈りを。
キレイ事だと知ってはいても、ウンスは思わずにいられない。
自分の知らない世界でも、使い慣れた道具が手に入らなくても、苦しい患者がいる限り。
何より愛するチェ・ヨンが、その命に胸を痛める限り。
我、包帯す。神、癒し賜う。
その言葉の真実の意味を、ここに来るまで実感した事はなかったけれど。
侍医が最後の縫合糸をカットすると、ウンスは握っていた持針器を脇のテーブルの上に置く。
「終了です。皆さん、お疲れさまでした」
薬員の一人が持針器を持つと、洗浄の為に水場へと運んで行った。
ウンスはそのまま部屋隅の洗面台で丁寧に手を洗うと、患者のベッドに戻り脈を診る。
大丈夫だと確信するまでほぼ1分。ようやくその手首を離して、にっこり笑う。
「消毒して上からカバーを。しばらく創口の化膿に注意します。
発熱、呼吸不全、出血、それから脈。何事もなければあと10日よ、頑張ろう!」
明るい声に室内の医官と薬員の顔に笑みが戻り、各々が頷いた。
「はい、ウンス様」
「お疲れさまでした、ウンス様」
「少しお休みください。後の手当ては我々が」
「お部屋にお茶をお持ちします、大護軍様とお客様の分も」
自分の誘拐はばれていないのだろうかと、ウンスは部屋の中の皆の顔を見渡した。
キム侍医はともかく、他は誰一人聞かないのが逆に不思議だ。
誘拐の主犯であるオク公卿を室内に入れた時には、さすがに何か言われるんじゃないかと思ったのに、誰も何も言わなかった。
ウンスはそう思いながらマスク代わりの布を外して、うーんと声を上げながら大きく伸びをする。
「・・・間に合わなかったかなあ」
唸り声の後のウンスの呟きに、キム侍医が振り返った。
「何かおっしゃいましたか、ウンス殿」
「先生。疲れてるとこ申し訳ないけどちょっとだけ、私の部屋まで来てくれる?それから、あの人たちも一緒に・・・いい?」
「無論ですが、ウンス殿こそお疲れでしょう。話は休みの後でも。チェ・ヨン殿には少しお待ち頂く事は」
「あの人も忙しくなるはずだし、私はいいの。こっちの話を先に済ませないと、安心して休む事も出来ない」
いつになく歯切れの悪いウンスの声に首を傾げ、キム侍医は歩き出したウンスの横に着き、診察部屋の裏扉を開けた。

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とりあえず 母子が無事でよかった
ウンスも典医寺のみなさん
お疲れ様でした。
モヤモヤしたまま休めないわね~
公卿は何を語るんでしょう