2016 再開祭 | 金蓮花・廿弐

 

 

部屋で衣を替える寡人に王妃が椅子を立ち、向かい合うこの胸帯を手ずから結ぶ。
それ程近くに来て頂くと、心配と照れとでどんな顔をして良いか。
「王妃。構わぬから、そなたは座っていなさい」
そう伝えると柔らかな手は次に、寡人に上衣を着せ掛けて下さる。
「・・・どうされた」
「何でもございません」

優しい手に着せ掛けられる衣に袖を通し、言い訳じみた声が出る。
「すぐ戻る。寡人が居らねば先に進まぬ故、顔を出すだけだ」
そうだ。寡人が無理をするのが何よりお嫌いな方。
この大切な体で、余計な心痛を抱かせたくはない。
しかし妻から返った声は、寡人の予想を裏切った。

「どうぞ、お急ぎにならず」
「急ぐなとは」
「普濟寺へ参拝して来ます。そこで王様のご安寧と、それから・・・この子の安産祈願をしたいのです」
「・・・ああ」
安産。そうだ、この方の中には二人の宝が宿る。
天にでも仏にでも縋りたいのは寡人とて同じだ。
知ったばかりで心が浮き立ち、安産祈願まで思い至らなかった。

「この用が済み次第、寡人も普濟寺へ参ろう」
そう言うと妻は優しい笑みを浮かべ、そんな寡人を押し留める。
「ご心配なく」
「しかし一緒の方が御利益があろう」
「王様が政務を疎かにされては、下の者が笑いましょう」

こんな時までそう言って、心を配って下さる寡人の王妃。
自身とて初めての懐妊で体も優れず、心配も多かろうに。
「判った」
あなたに一歩寄り、その目立ちもせぬ腹に目を落とす。
きっと忘れるまい。あなたが口を押さえて康安殿を飛び出したあの日。
こうして優しく、上衣を着せ掛けて下さった日。
互いに心より安産を願い、参拝を話し合うた日。

寡人の目線に気付き、あなたもその目でご自身の腹を見る。
思わずそこへと手を当てそうになり、思い出して半歩退く。
どれ程大切に思おうと、チェ尚宮の前でその体に触れる事はならぬ。
しかし実の母媽媽以上に母として育ててくれたそのチェ尚宮当人が、今誰よりも嬉し気な顔をしている。
満面の笑みに送られ、面映ゆい心持で坤成殿を出る。

寡人の誰より想う妻よ。
あなたの心痛を一つでも減らす為に、持ち掛けるべき取引がある。

「副隊長」
坤成殿の扉前、回廊を進み始めたこの背についた迂達赤副隊長へ声を投げる。
「は」
「徳成府院君の屋敷へ行く。先触れを出せ」
「王様」

鬼が出るか蛇が出るか。 それでも玉璽は必ず取り返さねばならぬ。
吾子がおる。吾子に母なる国、己の根源を失わせる訳には行かぬ。

私兵の群れに囲まれるという噂の徳成府院君の屋敷の中、そなたはどのように寡人を迎えるか。
再び毒牙で咬みつくか、将又締め上げに来るのか。
それでも守る者が居る限り、容易に倒れる訳にはいかぬ。

 

*****

 

「ご訪問、驚きました」
卓向いに腰掛け徳成府院君が言った。
「数百の私兵を抱える我が邸までわざわざお運び頂くとは」

迂達赤精鋭らと共に乗り込んだ徳成府院君の邸。
こうして訪れたのは初めてだが、その広大な屋敷の内外、聞きしに勝る私兵の列だ。

そんな兵に取り囲まれ、我が許には誰より頼れるあの隊長は居らぬ。
しかし居らぬからとて此処で留まるわけには行かぬ。
戻って来た時弱腰の王と、隊長があの時の判断を悔う事のなきよう。

「交換しよう」
単刀直入なその要求に徳成府院君が顔を歪める。
しかしあながち馬鹿にしただけではないらしい。
「・・・私の何を、お望みでしょうか」
「元の駙馬玉璽だ。持っているであろう」

今更腹の探り合いにかける暇も惜しい。もう判りきっておる事だ。
「先日余が皇宮を留守にしておる間に叔父に下された国王代理勅書。
あれには徳成府院君が、あの玉璽を押して渡したそうだな」
「・・・いやはや」

そうだ、もうこうして見えている事が山ほど在ろうに。今更探り合って何になると言うのだ。
「これはまた・・・随分率直に、お聞きになられますな」
「返してもらえるか」

徳成府院君はこの声を聞いておるのかおらぬのか。
体調に問題は無いと申してはおったが、謹慎中に人相が変わった。
萎れた肌、土気色の顔、生気の無い目、その下の黒ずんだ隈。
寡人を慮るような男で無い事は既に充分に判っておる。
時折苦し気に言葉を切るのは、体の調子が優れぬ所為か。

「お返しすれば私に、何か見返りはありましょうや」
「謹慎を解く。行きたい処があるのだろう。だが謹慎中ではな」
「お返しします」
一も二も無く即答すると、徳成府院君は声を張り上げた。
「良師!」

この男も腹の探り合いに疲れていたのか。まさかそんな事はあるまい。
奸臣になる為に生まれ、謀略の床で育ち、暴政を玩具代わりに握って来たような男が。
「はい」
呼び声に駆け付けた下男に、府院君が声高く命ずる。
「王様に玉璽をお返しする。今すぐに持って来い。早く」
「は・・・はい、ナウリ」

言い淀む手下の方が、また人間味も分別もあろう。
取引に応じるばかりか此処で玉璽を返すとは、即ち己が盗んだ事を認めるという意味だ。
それを名目に捕縛されても文句は言えぬ、それなのにこうも易々と。

呆れ果て思わず息で笑った寡人に、徳成府院君が目を当てる。
「王様」
「何です」
「お笑いになりますな」
哂わずにおられるだろうか。これ程分別を失した徳成府院君を前に。
それでも体裁を取り繕ってやろうと、軽く咳払いをして表情を改める。

「失礼した」
「私は今まで望むもの全てを手に入れて参りました。望めば王座も手に入ったでしょう。奇氏王朝もあり得たでしょう」
「そうかもしれぬな」
天の血筋を金で買えれば、若しくはその血筋を金で根絶やしにすれば、確かにあり得ない話では無かった。
故にそう応える。そしてそれを寡人の目前で堂々と口に出すこの男の、正気と思えぬその態度を見詰める。

何処かが病んでいる。もともと正気とは言い難い者ではあったが、その時には確りとした奸略と緻密な計算があった。
それに翻弄され煮え湯を飲まされた事も一度ならずあった。
しかし今の目の前の徳成府院君には、そんな気配など全く感じられぬ。

「それなのに、私はここに、この胸の片隅に大きな穴があるのです。埋められぬのです」
徳成府院君は震える掌で己の胸を押さえた。
本当に其処に穴があり、何かが漏れ零れるのを懼れるように。
「そんな時あの天人に出会いました。天界が極楽浄土であれ、奈落の底であれ構いませぬ。ただ、行きたいのです」
「行けばその穴は埋められるのか」
「行かせて下さいますか」

先刻まで死んだ魚のようだった濁った目が今や正気と思えぬ光を湛え、卓向こうから寡人を見た。

 

 

 

 

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