2016 再開祭 | 金蓮花・廿参

 

 

「今日は冷えます。無理をせず御日程を改めては如何ですか」
チェ尚宮が妾の外出着を整えながら、諭すようにそう言った。

整えられる翡翠色の上衣の刺繍の色が映える、晴れた秋の日。
坤成殿に射す窓からの陽は高い。今のうちに行かねばならぬ。

「落ち着かぬのだ。何かせねばと気ばかり焦り、我が身の置き所がない」
妾の口実に、チェ尚宮からのそれ以上の異論は戻らなかった。
「畏まりました。すぐにご用意いたします」

忠臣ゆえにこの心を汲んでくれるのだろう。騙すようで気が引ける。
しかし御母上の御言葉を伺えば、この気の昂りも鎮まるやも知れぬ。

まして御母上を通じて高麗の立場が少しでも好転すれば。
王様の御気持ちが少しでも、本当にご安寧になられれば。
「念のため、チャン御医にも同行を」
「・・・チェ尚宮」

御医までは困る。
医にも武にも腕の立つ御医がおっては、遣いとの密談が露見せぬとも限らぬ。
「なんでしょう、媽媽」
「大袈裟にはしたくない。内々の参拝ゆえ、静かに行きたい」

これほどまでに上手い嘘がつけるとは。
妻となり母となるとは、女に何でもさせるという事なのか。
女とはそれに耐えられるように出来ているという事なのか。

その上手すぎる嘘には微塵も気づかぬのか、チェ尚宮は静かに頭を下げて応じた。

 

*****

 

秋の普濟寺は、目に映る全ての景色が美しい。

参道の木々も、それを照らす柔らかな日差しも、吹く風も。
そして御堂の中に鎮座される金の御仏も。
本殿のその御姿の前で手を合わせ、深く首を垂れる。

王様のご健勝を、産み月までの吾子の無事を。
王室の安寧を、吾子が安らかに産まれる事を。
そして出来るならば母上にこの声が通じ、不安を取り除くお力添えを頂けん事を。

無言のままで横のチェ尚宮に目を合わせると、心得たとばかりその目が頷いた。
参拝時に王妃が床に伏し頭を垂れる姿を、尚宮とはいえ他者の目に晒さぬのは王室の伝統。
これで暫くの間、ここには誰も近寄らぬであろう。

心ゆくまで御仏に祈願する刻も、そして密使に会う刻もある筈だ。
安堵の息を吐き、金色の御仏の前に膝をつき床へ深く頭を下げる。
どうか、妾のあの方をお守り下さい。そして吾子を何とぞ。
お願いしたい事、御仏のご加護に縋りたいのはそれだけだ。

後の事は妾自身が動き、片をつけねばならぬ。

御仏の前。息を殺して立ち上がると、足を忍ばせて大仏殿を抜ける。
秋の日に輝く金の御仏が、何もかも知っているという穏やかな目でそんな妾の背を送ってくださる。

 

普濟寺の大仏殿から出で、指定された人気のない小さな伽藍へ入る。
壁に切られた細工窓からほんの僅かな陽が入るだけの狭く暗い部屋。

その中には密使どころか人の隠れる場所もなく、隠れる気配もない。
何か聞こえるかと耳を澄ましても、届く声どころか息すら聞こえぬ。
「断事官の親書を受け取った」

人気のない部屋の中、囁いても返答は戻らぬ。高麗語は解さぬのか。
「妾は魏王が娘、宝塔失里。母の便りを預かった者、出て参れ」
元の言葉で言ってみても同じ事。何の返事も戻る事はない。

痺れを切らし奥を覗こうと、狭いその小部屋を進んだ途端。
最奥の飾り彫の窓からの陽が、突然この眼の前で遮られる。
真暗くなった窓の隣、次の飾り窓の前に立った時。
再びその陽も遮られ、狭い小部屋が急に暗くなる。

そこまで追い詰められ初めて気付く。
まさか謀られたのか。あの断事官に。
我が生国の使者として高麗へ参った国の臣が、自国の王の姫であり高麗王妃の妾を謀ったのか。

考えてはならぬ。今は逃げねば。ここを抜けねば。

迫る暗闇に追い詰められ最後の望みである表扉へ駆け寄った刹那。

全ての希望を断ち切るように明るかった扉は無慈悲に閉ざされた。

あれ程美しかった秋の日差しなど幻だったように。
閉ざされた闇の中、先刻までの彩が頭の中に蘇る。

着せ掛けられた翡翠色の上衣。普濟寺の参道の常緑樹の葉。
本堂に鎮座する黄金色の御仏。
そして優しく笑いかけて下さる王様の、召された黒い龍袍。

ならぬ。戻らねば。必ず吾子と共に、王様の許へ無事戻らねば。
今御悩みの最中にある王様をお一人になど出来ぬ。
妾が強くあらねば。王妃として、国の母として、そして妻として。
鼻先も見えぬ闇の中、震える手を握り締めただそれだけを考える。

あの方を、そして吾子を守らねば。それが高麗を守るという事だ。

守らねば。この命に代えても守らねば。

 

 

 

 

1 個のコメント

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    いくら 自分は高麗の人間になったとはいえ
    母から…と言われたら
    里心が 出てしまうわよね。
    王様にも、チェ尚宮にも
    うそまでついて ここまで来たのに
    信じたのにね…
    悲しいわ。

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