「何処だ!」
叫び声が葉櫻の上に見え隠れする夏空へと吸い込まれる。
「何処に居る!返事をしろ!」
声が響くだけだ。深閑とした櫻の下、何処からも声は返らない。
その木下闇。
暗いのを怖がる吾子が泣いていそうで、心の臓が痛い程締め付けられる。
「聞こえるか!何処だ!!」
「あー、ちちうえだ!」
息が切れる程叫んだ時、その櫻の隧道の出口。
鍛錬場へ続く光の中から小さな影が手を振った。
「あっちにきいろいちょうちょがいるの」
「・・・何をしている!」
「おいかけたの、きいろいちょうちょ」
その影へと猛烈な勢いで最後の距離を詰めると、影は栗色の瞳でこの眸を見上げた。
その前に膝を着き、この両掌を折れる程細く小さな肩に掛け、その瞳を確りと正面から見詰める。
「父に黙って勝手に行くな!」
「ごめんなさい」
「どれ程心配をしたか、チュンソクもテマンも皆、探しているのだぞ!」
「ごめんなさい、ちちうえ」
ようやく己のした事が判ったか、吾子が泣き出しそうに唇を歪める。
「お前さえ無事なら、父は構わん」
「みんなにごめんなさい」
「そうだ」
その体を両腕に抱き上げ、その額に己の額をつけて安堵の息を吐く。
ほんの僅か目を離した隙に逃げ出す処まで、俺のあの方にそっくりだ。
事を仕出かした後、申し訳なさげにこの頬を幾度も撫でる指先まで。
「皆にきちんと謝れ」
「はい」
「勝手に何処へも行くな」
「はい」
「約束出来るな」
「はい」
葉櫻の並木から俺の後を追って駆け込んで来た奴らに向け、吾子を抱いて歩み寄る。
先頭にいたテマンが安心したように顔を綻ばせ、吾子に向かい駆け寄った。
「ここにいたんですか!」
「蝶を追ったと」
「心配したんだぞ・・・」
膝の抜けそうなテマンに向け、腕の中の吾子が頭を下げる。
「父上に黙って行ったらだめだ・・・」
「ごめんなさい、テマンおじちゃん」
「いいよ、いいんだ・・・ 無事なら」
その名を幾度も呼ばれ、吾子が幾度も頷く。この腕の中で。
「・・・」
「・・・!」
その後から皆が呼ぶ。吾子の名を口々に呼ぶ。
吾子の名だ。俺とあの方が最初にこの娘に贈った宝物だ。
乳を含み襁褓を替え、浅い眠りと小さな泣き声を繰り返す生まれたての吾子の横。
幾夜も二人で考え続けた、あの愛しい吾子の名だ。
判っているのに聞き取れず、俺は腕の中の温かな吾子を見る。
その栗色の瞳が俺を見つめ返して笑う。あの瞳と同じ三日月に緩む、そっくりの形の瞳。
「・・・」
確かめるようにこの唇が、その宝の名を刻む。
*****
「・・・」
確かにその宝物の名を呟いて、そしてもう一度眸を開ける。
夏の明け方、よく見慣れた寝屋の寝台の上。
確かめようと見る腕の中に、確かに温かく小さな体を抱いている。
亜麻色の柔らかい髪、剥き出しの細い肩、その項の線。幻ではない。
「・・・イムジャ」
起こしたくはない、けれど信じられぬ思いで。
あの吾子にそっくりなその鼻の稜線を、閉じた長い睫毛を。
それが落とす白い頬の影を追い、思わず呼び掛ける。
「・・・ん、どうしたの、ヨンア」
「吾子は」
「・・・はい?」
寝起きのひどく掠れた鼻声で、心底不思議そうにあの方が囁く。
「誰の?」
「俺達の」
「・・・・・・寝ぼけてる?」
「え」
「赤ちゃん産んだっけ?私は身に覚えないけど。まさか他の人の赤ちゃんだったら怒るわよ?」
明け方に起こされて機嫌が悪いのか、それともまさか本気で疑って居るのか。
大層不機嫌に唇を尖らせたこの方が、腕の中で怒ったように呟いた。
その尖らせた唇の先までがあの吾子に瓜二つだと、これ程鮮やかに憶えているのに。
「あなたと、俺との」
「うーん。早く欲しいけど、コウノトリはどこかに寄り道してるわね」
「そんな」
俺とて欲しい、この方に瓜二つのあの吾子が。
笑顔も髪も、瞳も頬も、総てこの方にそっくりのあの吾子が。
これ程鮮やかに思い出せるのに、夢だったというのか。
あの凍りつくような王様の御言葉までが幻だったのか。
それなら余りに不敬だ。吾子をあのように望まれると考えるだけで。
しかし考えれば考える程に辻褄が合い過ぎる。
もしも今この方を強く抱き締めてしまえば、本当に娘が、あの運命を背負った娘がこの世に生を享けそうで。
しかし欲しい、この方に瓜二つのあの吾子が。
父上とあの声で呼び掛けてくれる、俺にしがみ付いてべそをかく、誰より甘えたがりで意地張りの、この方そっくりのあの吾子が。
今も夢だったなど信じられん。
今にも明けの空からの薄明りの漏れる扉を騒々しく開いて、この腹の上にあの子が飛び乗って来そうで。
騒々しく騒ぎ立て、甘えて膝に乗り、この方と言い争いをしそうで。
夢だったのだろうか。本当は何処かに隠れているのではないのか。
それ程この腕は生々しくあの暖かく小さな塊の重さを憶えている。
陽だまりのような温かい匂いを、笑い声を、腕にしがみつく小さな掌の爪の形までを鮮明に憶えている。
まだ出逢ってもおらぬのに逢いたい。
まだ生も享けておらぬのに触れたい。
触れて抱き締め栗色の瞳を真直ぐ見、もう一度確りと伝えたい。
父に黙って勝手に行くな。父はいつでも此処にいる。
お前の心でお前自身の行く先が決められるまで護る。
心配せずにのびのびと、母上譲りの大らかさで明るく強く、自由にお前の人生を生きて行け。
他の事はこの父が護ってやる。
だから早く来い。何一つ心配などしなくて良いから。
その時はもう一度父の嫁になると駄々を捏ねて欲しい。
お前の母上そっくりの、あの何より愛おしい甘え声で。
そしてもう一度、次は手を繋いで歩こう。
夏ではなく春の迂達赤の櫻並木を、花弁の雨の降る下を。
今度は共に黄色い蝶を追い駆けよう。
皆に探し回らせるのでなく、皆と共に黄色い蝶を探そう。
夢の向うに薄れる、温かい面影だけを残す吾子へ呟く。
たとえ今は忘れてしまったとしても、会えば必ず思い出す。
「・・・逢いたい」
보고 싶다
そう囁いた俺に、この方は不思議そうに首を傾げてからそっくりの瞳で笑み、そっくりの細い腕で俺を優しく抱き締めた。
【 2016 再開祭 | 貴音 ~ 夢 ~ Fin ~ 】

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