2016 再開祭 | 金蓮花・廿

 

 

あの人が今来たばかりの岩場の道を、すごい速さで戻って行く。
その背中を見送りながら、私は岩陰に隠れたまま苦しい息を深呼吸しながら整える。

また斬るんでしょう。そして傷ついて帰って来るんでしょう。
そんなあなたにもうこれ以上、何も心配して欲しくないから。

ここにいて見つかって連れ去られるなんてコースもごめんだわ。
そんなことになったらあの人は、きっとどこまでも探しに来る。
どんな罠だって分かってても、きっとそこに飛び込んで来るから。

あなたは動くなって言ったけど、隠れた岩場は昼間の明るさ。ここにいて大丈夫なの?
見つからないか確かめようと、岩場の影から目だけを出して辺りを探る。
隠れるにはうってつけだけど、こっちの視界も遮る大きな石ばかり。
敵が近くに来ても、あの人みたいに気付く自信なんてないのに。

少しだけなら大丈夫?
誰かに見つかる前にと、岩場から立ち上がった途端。
頭の上に伸びた木の枝に、前髪を結んでたお気に入りの髪留めの鈴が引っかかる。
「あ!」

鈴はちりちりと鳴りながら岩場の斜面を転がって、すぐ近くの大きな岩のすき間に吸い込まれていく。
その鈴を目で追って、転がり込んだ岩の下をふさぐ石をどかして、その下のすき間に片手を突っ込む。

外からはまるで見えない岩の下の空間を手探りすると、チリンと可愛い音と一緒に、指先が硬い物に触れる。
良かった、これも大切な思い出だもの。ここであきらめて置いて行きたくなんかない。

その鈴を指先にはさんで、岩のすき間から手を抜いた瞬間。

最初は石かと思った。丸くて硬くてツルツルした円柱形のもの。
手の甲にかすっても傷ひとつできない、触り慣れた懐かしい感触。

・・・ううん。ありえない。 最初に頭に浮かんだのはそれだった。だってその感触。
ありえないと思っているのにもう一度、確認を持って岩の下、思い切り伸ばした手を差し入れる。

どれくらい長い間そこにあったんだろう。表面に触ると、湿ってぬるぬるしている。
だけど人間の脳は忘れない。
見えなくても手探りのままでパーツを確かめるだけで、その形を正確に頭の中に浮かべられる。

フタ。その上のへこみ。周辺に開けやすいように刻まれた溝。
直径は約30mm、高さ約50mm。
硬くてツルツルしてるそれは、多分引っ張り出せば透明だと思う。表面はコケに覆われていても。

感触。サイズ。これ、プラスティック製のフィルムケースじゃないの?

そのまま爪の先で搔き出すように滑るケースを引っ張り出す。
明るいところでこの目で見てもまだ信じる事が出来ずに悩む。

フィルムケース。確かにこの形状もサイズも材質も。
キチョルの所で華侘の残したものって、初めてオペ道具を見た時とまるっきり同じ感覚。

怖い。鳥肌が立つくらい。
ありえない。でも目の前のこれが現実。

どうして? 恐る恐るそのプラスティックのケースのフタを開ける。

今回違ったのは、そこには読むべき大切なメモが残っていたこと。
そこには息が止まるほど苦しい、心から正直な言葉が並んでいた。

明らかに経年劣化で変色、変質したボロボロの紙の上。
インクがにじんで読みにくいハングルの、間違いない自分の筆跡で。
きっと遥か遠くから届いたそのメモは、こう始まっていた。

─── ここに手紙を隠したわ 読むのはきっとあなただけ

 

*****

 

林道を駆け戻るこの姿に狙いを定め、今にも矢を射掛けんと弓を絞る音が聞こえそうだ。
引きつけるだけ引きつけ、視界の乱れやすい木々の密集した場所で近場の木へ飛び移る。

條々の合間から現れるべき俺を見失い慌てた追手の背後に飛び降り、そのまま一気に斬り捨てる。

残る二人は腕に自信が無いか、固まったまま林道を移動していた。
何とも斬り易い相手だと、その背の真後ろに気配を殺し忍び寄る。

息がかかる程近くまで寄ってようやく気付き振り向いた二人の男。
一人目を袈裟懸けに。そしてその腰から抜けた刃先で、二人目を上へ斬り上げる。

止めていた息を吐き切り鬼剣を鞘へと納め、岩場への道を駆け戻る。

押し込めた岩場の影に、大人しく身を潜めているとばかり思っていた。
何故そんなに目立つ岩の上、一人きりで座っているんだ。
周囲に狙えと言わぬばかりの姿を見つけ、半ば腹立たしい思いで駆け寄る。

しかし近寄って確かめた蒼い顔、色を失くした唇。
「・・・どうしました」

答は返らない。明るい声も、笑み一つすらも。
ただ今にも倒れそうな細い息だけを繰り返すあなた。

「何かあったのか。誰か来たのか」
来たとすれば、何故あなたが無事で此処にいられる。
罠かと周囲を見回しても、そんな気配は微塵も感じられない。

「・・・違うの」

声なのか息なのか、判らぬ程の弱々しさであなたが教える。

「では何故そんなに蒼い顔を」
話す事は疎か、息継ぎさえも辛そうな様子に背が凍る。
「痛むのですか」
「違うの、いいから抱き締めて」

この方のそんな様子も、そんな要求も初めてだ。
何が起こった。この方は此処で一人で何をしていた。

岩の横に腰を降ろし、細い肩ごと胸に抱く。
小さな頭はこの肩へいつも通りに凭れても、辛そうな息も虚ろな目も変わらない。

咽喉の奥から灼けるような、そして凍えるような不安が突き上げる。
叫びたいのに叫べない。吐き出したいのに痞えたままだ。
何だ。どうした。あなたに何が起きたんだ。

訊きたいのに訊けず、無言で抱き締めるしかない。
せめて小さく震える体がこの体の熱で温まるよう。

 

*****

 

すぐ先の岩の影、見えてるのは幻覚?それとも本当に未来の私?
もう頭を整理するゆとりも残っていない。

ただ悲しい程に分かる。
まるで揺れる陽炎みたいにそこに立つ、セピア色の思い出の姿。
幻覚?それともいつかの私が、本当にそこにいたの?

淋しい。淋しい。どうして。

繰り返し呟く、いつかの私のいつかの姿。

たとえ今の世界じゃなくても、こんな気持ちを抱えて旅をした。後悔と涙だけを抱いて。
寄りかかれる肩も、守ってくれる瞳も全部失ってから。思い出す資格さえ失くしてから。

あなたと歩いた道を一人で歩いた。
あなたの声を、不器用な笑顔を思い出して。

何度も心の中で呟いた。愛してる。今もこんなにあなたを愛してる。

こんなに愛しているのに、あの時だって愛していたのに、どうして。

 

私、どうして。

 

 

 

 

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