2016 再開祭 | 釣月耕雲・拾伍

 

 

「信じられないけど」

二日目の夜。
結っていた紅い髪をこの場で解くウンスの指先に苛りとしながら、チェ・ヨンは昨夜と同じ壁に凭れる。
「品が尽きましたか」
「どうして分かるの?!」

昨夜と同じように長卓を囲む面々の中、ウンスが小さく叫ぶ。
「石鹸はまだあるでしょう」
「ええ。さっき計算したんだけど、典医寺に残った分を合わせたらギリギリ間に合うくらい」
「明日、新たな客に糸瓜水は試せない」

続くヨンの声に、チャン・ビンが頷いた。
「本日いらした方々に伝えてあります。明日は売るのみと」
「ならば侍医も明日は売れ。試作の残りは小瓶に移そう」
「それでも今日試した方々が戻っていらっしゃれば、あの勢いではとても足りません」
「トクマニ」
「はい隊長!」
「明日の非番は」
「丙組なので、トルベたちが非番です」
「今宵は此処を見張れ」
「はい!」

トクマンは力強く頷いた後、首を傾げ訝し気にヨンを見た。
「隊長は」
「糸瓜水を作る」
「これから作るの?!」

ヨンの声にウンスが声を張り上げた。
錬金術でも使わぬ限り、作るしか無かろう。
ヨンは呆れ顔で頷く。この方が勝つ為ならどんな手も使うと。
「はい」
「私はいいけど、でもあなたは昨日も一晩中起きてたんでしょ?店の中でろくに寝る場所もないのに」

ああ煩い方だと首を振る。
勝ちを前に一夜二夜眠れぬと、文句を捏ねる無能の将が何処に居る。
「作ります」

二言は無い。断言したヨンにウンスの丸い瞳が当たる。
白い顔が勢いに呑まれたよう頷くのを確かめ、壁から背を離す。

「チェ・ヨンさんの言った通り、みんなのおかげでもう商品は完売。
石鹸が少し残っている以外、在庫もないの。
今日で売り上げ目標の150%達成よ。つまりもうこの時点で、50%の純利になってるの。
明日の材料費を考えても、うまく行けば80%近い利益が出るわ。本当にすごい。
初めてのビジネスでこんな大成功、聞いた事ない」

始まった。ヨンは息を吐く。
金の問題ではなく勝ち負けの問題だ。
そして明日の最終日に完膚なきまで勝利して、勝鬨を上げる為の最後の夜。
此処で気を緩めれば足許を掬われる。
勝てるだろうという慢心が、己の首を絞める事がある。

「侍医」
「はい」
「このまま典医寺へ行く」
「判りました」
「お前は寝ろ」
「・・・お手伝いできることがあれば、声を」

チャン・ビンに頷くと、黒い眸が次に捉えた男を呼ぶ。
「ヨニョル」
「何だ」
「明日の最終日、違う奴を連れて来る」
「もう良いだろう、要らないよ。俺達もだいぶ慣れて来た」
「いや。新しい奴が来れば客が変わる。それを目当ての客が来る。
女人に顔の利く男だ。あしらいに慣れている」
「ふーん。俺と気が合うかもな」

その能天気加減にヨンが咽喉で笑う。
確かに無類の女好き、悪気の無さも何処か似ているかもしれない。
ヨニョルは商いの為に、そしてトルベは。

あの男の女好きにも理由はあるのだろう。しかし敢えて確かめない。
それも含め信用できる男だ。女好きだが相手を傷つける様子は無い。
天女の美しさに迷い、隙あらば口説こうという態度さえ見せぬなら。
「・・・そうだな」

明日ウンスに手の届く処に絶対にトルベを立たせる事は出来ない。
ヨンは各々の配置を考えつつ頷いた。

 

*****

 

「眠いー」
「お寝み下さい」
「1日中立ってたんだもの」
「ですから」
「足がむくんでパンパンなのよー!」

口を開けば文句ばかりか。
蝋燭と油灯の揺れる中、ヨンは薬缶の中身を零さないよう小瓶に移し替えていく。

余らせれば無駄になる。典医寺の材料を無駄にするとは、即ち国の税を無駄にするに等しい。
どれも最高級の薬剤だ。何しろ王を始め、皇宮の者たちの疾病を診察するために揃えた薬剤。
王と王妃の為の薬剤には、一切手は触れていない。
余った薬剤の古い物から順に使っているとはいえ。

「いいのよ、リサイクルなんだもの。どんな薬剤にも使用期限があるわ。
これを過ぎたら薬効が落ちますよって期間。私たちだってそれを過ぎたらどんどん捨ててたもの。
ただ捨てるよりもこうして使った方が、よっぽど有効活用じゃない?」

医の道は全く判らない。
最初に糸瓜水を作ったあの日、小瓶の蓋を締める横で言われ、そんなものかと納得はした。
それでも薬剤が無駄になれば、費やした刻も買い求めた金も無駄になる。

如何に敵兵を多く討ち取ろうと、それまでに自陣の兵を喪えば。
それこそが敗戦以上の屈辱だ。
兵を喪わずに戦にも勝ったとて、兵糧を無駄にして馬を失えば。
無駄という意味で負けに等しい。

中身を小分けにし終えた薬缶を作業台に置くと、
「蓋を」
言い残し、ヨンは部屋の扉から真暗な典医寺の庭へ断りもなく飛び出して行く。
呆気に取られてその背を見送りウンスは瓶を手に取ると、蓋をきゅっと閉めた。

その時ヨンが大きな木桶をぶら下げ、肩で押すように扉を開け部屋へ戻って来る。
椅子に腰掛けたウンスの足許へ桶を置くと、手近な薬缶で沸かしていた湯を注ぐ。
「何してるの?」

ウンスの声には答えずに桶に熱湯を張ると、空の薬缶を手に部屋隅の水甕へ歩く。
其処から薬缶に水を注ぎ、桶に戻って水を足す。
最後に指で混ぜ温度を確かめヨンは低く言った。
「足湯を」
「え?」
「浮腫んだと」
「・・・使っていいの?」

悪ければ用意などするか。何故わざわざ逐一此方を確かめるのか。
答えないままヨンはもう一度、薬缶を満たしに水甕に向かう。

ウンスは答を待っているのか、沓すら脱がずに黙っている。
ヨンと足湯を張った桶とを、無言で交互に見比べるだけで。

言えば良いんだな。ならば素直に足を浸けるんだな。
自棄になってヨンは言った。
「浸かって下さい」

嬉しそうに頷くとウンスは沓をぽいぽい脱ぎ捨て、そのままポソンに手をかける。
そしてヨンの目前で、躊躇うことなくするりと脱いだ。
薄明りの中の細い足首。足の指の先までが影に浮かぶ。
他の男が一人でもいれば絶対に足湯など用意などしなかった筈だ。
ヨンはその素足から目を逸らし、再び薬缶を満たしながら考える。

判っている。何でもしたいと思っている事は。
それは願いでもあり、頼みでもある。
笑って欲しいと。許して欲しいと。そして忘れて欲しいと。

気付けば薬缶に注いでいた柄杓からの水は溢れ、ヨンの手を濡らしている。

 

 

 

 

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