2016 再開祭 | 木香薔薇・廿肆

 

 

「だ・・・だ・・・」
顔面蒼白で立ち尽くすソンヨプの絞り出した呻き声に、ウンス様は首を傾げる。
「はい?」

派手に落ちて粉々に割れた茶器に注いでいた湯。それが足にかかったかもしれない。
そして跡形もなく辺りに砕け散った茶器の破片。ソンヨプの怪我や火傷を心配すべきと思う。

けれど俺が問う前に奴は足元の破片を跨いで飛び越え、ウンス様の前まで小走りに寄って来た。

そこまで来ても信じられない顔で、そのままウンス様を凝視する奴の視線に不安が募る。
馬鹿を言い出すなよ。でも止めようとした俺の声が飛ぶよりも早くソンヨプはウンス様に
「だ、騙したのですか、若様を!」

そんなとんでもない事を、大声で尋ねた。
だから俺も奴の怪我や火傷を心配する前に、思わずその無礼に怒鳴る。

「ウンス様が、いつ俺を騙した!」
「昨日から一言もおっしゃらなかったでしょう、ご亭主持ちだと」
「言う必要もなかったろ、第一尋ねてもいないのに人の妻と名乗る方がおかしいじゃないか!一体何を」

ああ、何だろう。
本当なら初めて心を奪われたこの人がもう人の、まして高麗の民なら知らぬ者のいない偉大な将の奥方で。
本来なら落ち込みたいのに、いや、心のどこかは落ち込んでいるのに、こいつのお陰でそれどころではない。

そういう意味では、本当に良い供だ。これ以上はないほど。
何しろ主が弱って見えるように、わざわざ扉を閉めて出て行くし。
こちらが落ち込む暇もないような、とんでもない無礼を働くし。
良い供だけど、だからと言って許せるわけじゃない。

「いい加減にしろ、ソンヨプ。こうして御診察に来て下さったウンス様に、失礼だと思わないのか!」
「それならいらっしゃらない方がまだましです」
「おい!!」

物心ついてから、御客人の方々の前でこんな失礼を働いた事はない。
西京でこんな事をすればあっという間に噂は広まるし、そうすれば後ろ指を指されるのは俺ではなく我が家。

父上であり、母上であり、そして関係のない弟の名がまた上がる。
スンジュンのせいじゃないのに、俺が嗤われれば良いだけなのに、いつだって言われるんだ。
妾と庶子を邸に引き込むような御父上では、嫡子様が無礼なのも仕方ない。お若いのだから、内心はさぞ御腹立ちでしょう。
物陰で交わされる噂、そんな的外れな嘲笑と同情の標的にされる。

「お前な、ウンス様と御医殿に向かって」
「若様のお気持ちなんて、昨日すぐにお気づきの筈でしょう!違いますか、医仙様」
「は、い?」

もう滅茶苦茶だ。
俺は怒鳴るしソンヨプはウンス様に詰め寄るし、ウンス様は仰天しているし、御医殿は呆れ顔で俺達を見詰めているし。
一旦言葉を切って、大きく深呼吸を繰り返す。落ち着け。駄目だ。

「・・・ソンヨプ」
駄目だ。これ以上俺が興奮してみっともない姿を晒してしまえば、悪く言われるのはスンジュン。
何の罪もないあの弟、一緒に川で遊んだあの可愛い弟。俺が馬鹿をして、悪く言われるわけにはいかないんだ。
兄上って呼んでくれるスンジュンをきちんと育てるために、他人に後ろ指を指させないために、俺は開京で。

国子監で学を修めて、西京監営でなく中央で自力で官位に就いて、家督を継いで、そしてスンジュンを。
出来れば次の家督相続に、それが叶わないなら不自由しない財を、だからそれまでは。
無意識に握っていた手を開き、浮かんだ汗を上衣の裾でこっそり目立たないように拭って息を整える。

「もう出て行ってくれ。呼ぶまでは入って来るな。今回の一件は誰にも言うな」
「若様」
それ以上の言い訳はきかず、俺はウンス様に頭を下げる。

「ウンス様、本当に申し訳ありません。家人の無礼は私の無礼故、咎ならどうか私に」
「咎?」
ウンス様は本当に、心底訳が分からないという顔でこちらを見た。

「えーっと・・・ちょっと、行き違いはあったみたいですけど。まずテギョンさん」
「はい」
そう呼ばれ、俺は椅子の上で姿勢を正す。

「テギョンさんにケガさせたのは私です。もう言い訳の余地ない。だから謝らないでね?
それから、あのひ・・・チェ・ヨンさんのこと、黙ってて誤解させたんならごめんね?」
「ウンス様にお詫びを頂く事はありません。私こそ騒ぎを大きくして、申し訳ありません」
「分ってくれてよかった。それから、私たちの家はすぐ近くだからこれからは何かあったら来てね?」
「・・・あ、ありがとうございます」

ウンス様、そしてチェ・ヨン大護軍様。
お二人のお邸にお邪魔する機会など、この先決してないだろう。
それでもそう言って下さる礼儀に対して、俺は深く頭を下げた。
「それから、ソン、ヨプさん?」

ウンス様は続けて、今まで無礼を働いた張本人を呼ぶ。
ソンヨプはそのお声に、まだ不満げに頷いた。
「はい」

ソンヨプが俺を大切に思っているのは知っている。けれどその行いが時には俺の為にならない事も知って欲しい。
無礼のお詫びはしたが、それでも許す許さぬはウンス様がお決めになる事だ。
ソンヨプの立場はあくまで我が家の家人、官位があるわけでもなく、貴族というわけでもない。
無礼討ちとおっしゃられても、俺でどこまで庇い立てが出来るのか。
呼ばれたのはソンヨプなのに、俺はもう一度手に汗を握って、次のウンス様の声を待つ。

「私が鈍かった、ん、だと思う。でもテギョンさんのケガが心配だったのは本心だから来たんです。だから謝らない」
「それでも若様が傷つきます」
「・・・うーん、そうかあ。そう言われると返す言葉がないわ」

この期に及んでまだ口答えするソンヨプを、何故だかウンス様は大層優しいあの薄茶の瞳で見た。
俺達に、俺の家族に今まで向けられて来た好奇の目、白い目とは全く違う。
表面上は媚び諂い、陰で散々物笑いの種にするあの視線とは違う。
優しい目で、全く御立腹の様子はないままで、ウンス様は穏やかに頷いた。

「ソンヨプさんも、テギョンさんが大切なのね。自分より」
「はい」
ウンス様のお言葉に、ソンヨプは迷う事無く強く頷き返す。ソンヨプさん、も。ウンス様の口調が気に掛かる。
この人にもご自分より大切な方がいるのは判る。ご結婚されているなら、お相手はきっとチェ・ヨン大護軍様。

けれど、そういう事なんだろうか。
その声も、視線も、そうした夫婦の情愛を語るものには思えない。
第一お二人の夫婦の情愛と、俺達の関わりは全く質の違うものだ。

「幸せね、ソンヨプさんも、それにテギョンさんも」
「・・・は、ぁ・・・」
一向に腹を立てないウンス様を、さすがにソンヨプも怪訝に思ったんだろう。遅ればせながらようやく素直に言った。
「でも、ソンヨプさんにどんなに怒られたって気にしないわ。
私はテギョンさんが心配だし、ケガが治っても話し相手くらいは出来るから。
またお邸に来るかもね?あの人に許してもらって、家まで呼んじゃうかも。あ、それより」

怒り出すどころか名案を思い付いたとばかり、ウンス様は音を立てて両手を合わせ、期待するように俺を見た。
「テギョンさん、ケガが治ったらリハ・・・回復も兼ねて、我が家であの人に軽くスト、えーっと、柔軟とか、簡単な鍛錬でも習う?
文武両道はモテる男の基本よ!少し体を動かせば治りも早いし、再発防止になるし、気分も軽くなるかも」
「き、分・・・」
「そう。よく眠れるようになる。寝汗もかかなくなるし、右腹の痛みも軽くなるわ」

ウンス様はごく普通の口調でおっしゃった。
今まで誰一人言い当てた事のない、ずっと黙って来た寝所の俺。
おそらくソンヨプも知らなかったろう一人きりの時の俺の姿を、お見通しだとでも言わぬばかりに。

 

 

 

 

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4 件のコメント

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    テギョンさんは いいとして
    ソンヨプ あなた 命知らず(笑)
    この場に 大護軍がいなくてよかったわ
    妻を愚弄するやつは 許すまじ
    坊っちゃまへの 忠誠心は
    よーくわかった。
    医仙の能力には 敵うまい。

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    テギョンの身体の不調を
    見抜いてるウンス
    流石ですね(^^)
    ソンヨプの失礼な態度…
    ヨンが居なくて命拾いしましたね(^^;

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    えぇ~ソンヨプ?さん凄い発言!ウンスは医仙としてぶつかって怪我させた若様相手に治療をして必要な会話をした。ウンスはただ簡潔に既婚者で誰が夫で自分が誰かを伝えた。騙してすらないな…ウンスは医官として若様の秘密を見抜いていたようで凄い!これはキム医官もビックリかまたはもしかして?と思ったかな?どうなんだろう?ヨンア的には迷惑極まりないだろう…

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    色恋沙汰はにぶちんだけど、本当に上医なのですね、ウンスは…
    ハチャメチャしてるようで、きちんと押さえる所は押さえている。
    周囲をハラハラさせるけれど、いつの間にか皆を笑顔にさせるオーラをもつ天女…
    これではヨンも、一生心配で目を離せませんね~(;'∀')
    いつも素敵なお話ありがとうございます♪

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