長過ぎる一日の終わりはまだ訪れない。
康安殿から出たチェ・ヨンの足は、深夜の皇宮をそのまま宅でなく迂達赤へと戻った。
突拍子もない刻に兵舎へ戻った姿を見つけ、迎えた門衛の隊員らが仰天した顔で
「大護軍!」
「何かあったんですか」
駆け寄って口々に不安げに声を掛けた。それに首を振りながら
「隊長は」
「今宵はもう部屋にいらっしゃると」
「そうか」
チェ・ヨンは頷き、闇の中に燃える篝火を焚いた門を過ぎる。
寝静まった兵舎の中、他には動く者の気配も物音もなかった。
夜の歩哨の兵は夫々の持ち場を守り、平穏で温かい春一夜の睡魔と戦っている頃だろう。
吹抜けの中も蛻の殻で、昼の間の誰彼となく屯する賑わいが嘘のように闇に沈んでいた。
土床の埃の匂いと壁に揺れる油灯の中、廊下を真直ぐチュンソクの私室へと向かう。
夜も疾うに更けた刻、私室の扉の隙間から廊下へ洩れる灯を見つけ、思わず苦笑を浮かべた。
己も眠るどころではないが、同じ気持ちで夜を過ごしている者があそこにもいると。
さすがに転寝のところを起こすのは忍びないが、今は一刻を争う。
チェ・ヨンは迷いなくその細い光の漏れる扉を開き部屋内へ踏み込んだ。
予想に反し転寝どころか夜着すら羽織らず、鎧こそ脱いではいるものの、チュンソクは昼の隊服姿のままチェ・ヨンを出迎える。
向かい合うその顔は早朝から深夜まで一日中振り回され、目の下に濃い隈を拵えていた。
「大護軍」
「おう」
「医仙はテマンにお邸までお送りさせました。大護軍が戻るまで守れと伝えてあります」
相変わらず手回しの良い事だとチェ・ヨンは片頬で笑む。
「気が利く」
「大護軍は今まで何方に」
「康安殿だ」
その一言に頷いて、チュンソクはチェ・ヨンをじっと見た
「何だ」
「オク公卿を許すのですか、大護軍」
己が東奔西走している間、存分に考え込む刻があったのだろう。
チュンソクは尋ねるのではなく、確認の為に聞いたようだった。
「それしかない」
「医仙が御無事だったから良いようなものの」
「精鋭に伝えたか」
「は。しかし、誰一人得心しておりません」
男二人は互いに口に出せず頭を痛めて顔を顰める。
誰一人得心などしない。当然だ。己が出来ぬのに。
己の心映えが隊員に伝播する危うさは自覚している積りだった。
正しい道を行く限り不安はなく、誤った道を行けば伴連れになる。
清廉でいる限り付け入る隙はなく、欲に眩めば腐敗の温床と化す。
信義の道を曲げず、愚直に鍛錬を重ね、戦には決して負けない。
それだけしか出来ぬ己を信じ、此処まで従いて来た馬鹿共を欺いて公卿を匿い庇う理由。
決めた筈でも無理に抑えつけているからまだ揺れる。
「共に公卿の宅へ踏み込まなかったのを悔いています」
その心を知ってか知らずか、チュンソクは心底悔し気に唸る。
「何があったのですか。攫われたのでないなら、何故医仙は公卿の邸に。
兵らも踏み込んだ時には、既に大護軍がいらしたと。但し丙組の奴らは聞いております。
医仙が確かに公卿に向かって、子が欲しくないから自分を誘拐したのかと詰め寄ったと」
「そうか」
あの捕縛寸前の騒動なら、聞かれていても仕方あるまい。
己の制止は遅きに失したと、チェ・ヨンは口端を歪めた。
それでも此処でチュンソクを相手に明言するは吉か凶か。
「真実が知りたいのです。その後なら幾らでも隠します、大護軍。医仙は攫われたのですか。企てたのはあのオク公卿ですか」
「チュンソカ」
「は」
「面倒だな」
「丙組が、ですか」
こ奴もまだだ。判っているようで肝心な処を見逃している。
十年を超える付き合いで、生死の境を幾度も共に超えても。
渋面に思うところがあるのだろう。チュンソクはすかさず言った。
「無論口止めはしております。皆もそれに逆らうではありません。
ただ医仙を攫われておきながら何故大護軍が堪えねばならんのか、それに怒っています」
「・・・そうか」
「理由を聞かせてはもらえませんか、それが判らねば俺も皆も抑えがききません」
「聞くな」
チェ・ヨンはそう言って立ち上がった。
さすがにチュンソクも不満げに髭の下の口許を引き結んでいる。それでも聞くなと首を振る。
「聞けば巻き込まれる。お前までそんな目に遭うのは困る」
「大護軍」
「俺の留守を守るのが役目だろ」
「またどこかに行かれるのですか」
長の留守でも。此度の謀りが露呈し、罪に問われても。
後を継ぐのが共に戦場を駆けたこの慎重居士なら、僅かばかりは安心できる。
「さあな」
目の前の忠義な男が、内心腹に据え兼ねる程いきり立っているのは判っている。
判っていると伝えたくてチュンソクの肩を大きな掌で叩き、無言で部屋を出て行くチェ・ヨン。
同じくまたチュンソクも物言えぬまま、目で追いかけるだけだった。

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