「まだ初期のようですが。脈診の結果、間違いありません」
向かい合うチャン御医は、行燈の灯の中で我が目を見詰め、穏やかな声で断言した。
「王妃媽媽が、ご懐妊なさいました。真におめでとうございます」
チャン御医の声に、ドチの歓喜の声が重なる。
「おめでとうございます、王様!」
その声に微笑みつつも、御医は慎重に釘を刺す。
「しかし命門の脈が弱く、十分に注意が必要です」
「・・・判った。くれぐれも気を付けよう。王妃には逢えるか」
御医は急くこの心を理解するかのように、確りと頷いて言った。
「無論です、王様」
坤成殿の部屋の扉が尚宮の手で引かれるや、その内へと足早に進む。
控の間におったチェ尚宮が、そんな寡人へ深々と頭を下げる。
「慶賀に堪えませぬ、王様」
そう言うと続の間、薄紗で仕切られたあの方の寝所を掌で示す。
仕切りの薄紗前に立てば、内側の灯で中に待つ影が揺れる。
開けても良いのか。どんな顔をすれば良いのか。
今はもう、あの辛そうな御様子は治まったのか。
千々に乱れる心を整えるより先、この手が勝手に目前の薄紗を開く。
紗の内に静かな瞳で佇むあなた。焦点が定まらぬ。何処を見て良いのかが判らぬ。
先刻のチャン御医の最初の声を、康安殿で聞いてより。
この世にこれ程嬉しい報せがあるのか。
この心をこれ程晴れ晴れとさせる声があるのか。
それなのに、それを伝えるに相応しい言葉一つ頭に浮かばぬ。
お体を労わるように。ゆっくり休むように。温かくするように。
良く召し上がるように。無理は決してされぬように。
ご心配はされ過ぎぬように。案ずるより産むが易しと申す。
何かあれば寡人にすぐに伝えて欲しい。侍医も常に控えておる。
あらゆる言葉を考えた。康安殿より此処に来るまでの回廊にて。
労いの言葉、励ましの言葉、気遣いの言葉。
それでも紗の奥の方の真直ぐな瞳を見れば、全て忘れてしまう。
ただ心から、弱く素直な声だけが口を突く。
「大丈夫か」
「はい」
少女のように髪を降ろし、寡人を真直ぐ受け入れて下さるこの方に。
「痛みはないのか」
「ございません」
これ程に愛おしく、これ程に大切に思う事など無いと思っていた。
共に何処までも空を飛びたい女人に逢えただけで十分と思っていた。
これ以上愛おしく思えるなど、大切と思えるなど有り得ぬと。それなのに。
「よくぞ、あなたに出逢えたものだ」
あなたがいるからこそ、祖国を守りたいと思っていた。
跪き無様な姿で、あなたを貶める事はせぬと誓っていた。
それなのにあなたはご自身だけでなく、宝まで授けて下さった。
「私の王妃」
あなたにどう伝えれば良いのだろう。
どれ程嬉しいか。どれ程心配したか。どれ程愛おしいか。
寡人の持つ全てと引換にしても惜しくない。大切な王妃。
声が続かずに抱き締める寡人を、優しい肩で受け止めるあなた。
「ありがとう」
見られぬように浮かべた涙に気付き、何を問う事もないあなた。
「私は果報者だ」
その柔らかい腕がこの背に回るだけでありがたい。
こうして抱き締め抱き締め返され、ずっとあなたと共に居る。
共に飛ぼう。空の果てまで。この世の全てを見通せる処まで。
そして吾子にその全てを見せてやりたい。寡人の王妃と共に。
*****
床の上、荷物を枕に目を覚ます。
昨日のあのぼろぼろの家より少しは整った家の部屋の中、見渡す限りあなたが見えない。
昨日みたいに窓の横に立ってる姿もない。
ボロボロの土埃だらけの床の敷物の上、体を起こして1つしかない扉を開ける。
その外に続く、ちょっと長い石段の下の後姿。
ああ、やっぱり今日も見てる。
どんどん離れていく、遠くなっていく皇宮の方角。
石段を下りて、静かにその後ろ姿に近寄って行く。
隠したってダメ。ねえ、私もいつでもこうやってあなたを見てるんだから。
心配なの。言ってくれないけど、その気持ちは分かる気がするから。
暗い夜でもあなたを見つけただけでほっとする。
側に行きたいと思う。一緒にいて声を聞きたい。
ううん、たとえしゃべれなくてもいいから。ただ側にいるだけでも。
ここまで譲歩するなんて、自分でも驚きだけど。
石段の下に腰掛ける。気付いたあなたが振り返って隣に来てくれる。
「夜襲を警戒しております」
冷えてきた秋の夜、あなたはそう言って横の私を見る。
「気にせず眠って下さい」
真っすぐな瞳を見つめ返して黙ったままの私に、あの声が聞こえる。
「・・・何です」
「あっち、皇宮の方向よね?昨日の夜も寝るまで、ずっと見てた」
あなたは黙って一呼吸置くと、ごまかすみたいに言った。
「休まねば明日が辛い」
「心配でしょ、残して来た王様のこと」
答は返って来ない。だけど返らないのが正直な答だと思うから。
「こうしましょ。私が最初についた村の天門の場所でいい。そこに着いたら戻って。そこまでで許してあげる」
一緒に開くのを待たないで。これ以上心配しないで。
あなたが辛そうな顔を隠す方が、私にはずっと心配だから。
私のことも離れた王様のことも守るなんて、出来ないから。
天門に着くまでもう少し。その間は笑顔をたくさん見たいから。
ずっと覚えておきたいから。 だからそう言ったのに。
「戻れません」
あなたは私から目を逸らして、固い横顔でそれだけ言った。
「何で?」
「迂達赤隊長がこの体たらくでは、他の奴らに示しがつきません」
「体たらくって、どういう意味?」
「武者の剣に迷いは命取り。迷いを抱えては王様を守れません」
迷い。命取り。そんな不吉なキーワードに胸の中がざわざわする。
この人がこんな事を言うなんて、今まで一度だってなかった。それなのに。
「ねえ。今までの人生で命令に従ったり頼みを聞いたりじゃなくて、自分の自由に、きままに過ごした事ってある?」
「・・・・・・昨日」
あなたは思い出すみたいに、目の前の夜を見つめて言った。
「そして、今日」
その瞬間にいきなり立ち上がるあなたの手の中の剣が、冷たい音を立てる。
辺りを眺めるその瞳につられて見回しても、私には何も分からない。
それ以上の言葉はない。
空いた手でこの手を強く握ると、あなたはついさっき下りて来た石段を、私を引っ張って小走りに上がった。

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