2016 再開祭 | 金蓮花・拾参

 

 

今宵の寡人の大切な妻は、殊更機嫌が悪いと見える。
寡人が坤成殿へと戻るより先に、敢えて康安殿まで姿を見せる程。

執務机で書状を広げていた康安殿。
扉表が騒めく気配に、握った筆を硯に戻して書状からの視線を上げた処で。

明らかに不機嫌な様子で殿内へと滑り込んで来る王妃の姿。
それを止める事が出来ぬまま、その後から続いて入室するドチとチェ尚宮。

「・・・もう、参ろうとしていたところだ」

執務の卓の上には隠しようもない程に詰まれた書状の山。
玉璽を手に見え透いた申し開きをして、納得する方ではない。
王妃は真直ぐに首を伸ばし、無言で執務机への階を昇る。
その静かな怒りに触れぬよう、後に添うておったドチもチェ尚宮も坤成殿の尚宮達もが、無言で我先にと康安殿を抜けて行く。

そんな事など気にも留めぬ様子で、王妃は無言でこの卓上の玉璽を丁寧に取り上げ、絹張の玉璽箱へと納める。
次に書状を丸めるとまるで敵でもあるかのように、ずいと卓隅へと追いやった。

この人の怒りはいつでも静かで深い。ともすれば見逃してしまう程。
悲しみも喜びも心配りもそうだ。よくよく見ておらねば気付かぬ程。

その気持ちを表すのが上手でない人だから。
元の公主という立場で、そして高麗の王妃として、素直に生きる事が許されぬ事がある。
寡人と同じだから判ってやりたいと思う。手を伸べ、甘えて欲しいと頼みたい。
大切な方だから。これまで傷つけ擦れ違った分まで、今は判ってやりたい。
そう思う程に、掛ける声が不器用になる。

「真だ。今、すぐに仕舞うところであった」

王妃は卓上を整えると振り返り、その大きな目で寡人に真直ぐ問う。
「ではおっしゃって下さい。今日の問題は何でございますか」
「・・・今日とは」

余りに強く真直ぐ過ぎる目に、思わず問い掛けてしまう。
「日々問題は起こるばかりです。一時には伺い切れませぬ。まずは今日の分のみをお教え下さい。
それを共に考え、共に此処にて夜を明かさんと思い、こうして伺いました」

これ程に優しく愛らしく賢き妻が、この世に他に居るだろうか。
小言を言いにではなく悩みを聞く為に、お怒りの顔でこうして逢いに来て下さるなど。

「・・・今日の問題はこれだ」

あのチェ・ヨン以外誰にも打ち明けられぬ心の裡も、あなたにだけは素直に言える。
何故なら寡人が倒れれば、否応無くあなたを巻き込んでしまうからだ。

チェ・ヨンは寡人を強くする。最初の民だ、情けない姿を晒すなと。
そしてあなたは弱くする。素直になれる。どんな痛みも伝えられる。

「独立を護りたいならば覚悟を示せ、とな」
「元が押し付けた国壐を用い、医仙を処刑せよと」
「だが医仙は居らず、元の国壐も無く」
「抗えば高麗へ進軍するとでも申しましたか」
「高麗を差し出し省長になるのを拒めば、そうなるであろう」
「戦うおつもりですか、王様」
「どうしたものであろうか。それが判らず、眠れずにおる」

そうだ。それが判らぬ。
寡人は心よりこの国を守りたい。民を守りたい。何故ならそれは他ならぬあなたを守るという事だから。

しかし民は本当に望むのか。
自ら血を流し、愛する者に血を流させ、そうしてまで国を守って欲しい、高麗の民でありたいと願うか。

「妻よ」
「はい、王様」
「もしも寡人が上からの命で戦へと駆り出される民ならどう思うか。そなたがその妻ならば、どう思うだろうか」
「私なら」

王妃は微かに目を逸らし、考えるよう声を切った。
「私ならば・・・」

視線を戻したこの方に余りに突然起きた異変に、思わず目を瞠る。
最初は言い辛いのかと思うた。
答を寡人に告げ難く、故にその袂で口を押さえられたのかと。
「妻よ」

そうでは無い事がすぐに判る。
この方は苦し気に眉を顰め、その大きな澄んだ目を涙で潤ませ、吐き気を堪えるように肩を震わせ執務机へ倒れかかる。

「王妃、どうされた、しっかりせよ」
その肩を抱き、震える体を支え声を張り上げる。
「早う、誰かおらぬか!」

その声にすぐに表からドチとチェ尚宮が殿内に入って来た。
「一体どうした事だ、王妃の様子がおかしい!!」
その顔にドチとチェ尚宮が不思議な顔を見合わせる。
何故すぐに駆け寄らぬ。何故すぐにチャン御医を呼ばぬのだ。しかし今はドチやチェ尚宮を叱責する暇もない。
「妻よ」

その肩を抱き締めようとするこの腕を、弱々しい腕がそっと払う。
「妻よ!」

そのまま苦し気に口許を押さえ、珍しく足音を乱しあの方が康安殿を抜ける。
チェ尚宮がその背を追い駆けて走って行く。
寡人が階を駆け下り目の前のドチに尋ねる声は、己でも情けない程に震える。
「ドチヤ」

何故そう平然とした顔をしておるのだ、如何に寡人の腹心とはいえ。
「どうした事だ。余のあの方が、我が妻が」
訴え掛ける寡人に何故、それ程に嬉し気な笑みを浮かべておるのだ。

 

*****

 

待てぬ。
「王様、今暫し」
「待てぬに決まっておるだろう!そなたは見なかったのか!!」

一体此処でいつまで待てと言うのだ。
咽喉も裂けんばかりの烈しい叱責に、ドチが恭しく頭を下げる。
「畏れながら、拝見致しました。故に」
「あれ程苦しそうであった。吐き気すら堪えておったのだぞ!!」

焦り焦りと短く燃えていく行燈の芯が、気になって仕方が無い。
一体あとどれ程待てば、あの方の容体が判るのだ。
その行燈の芯が燃え尽きるまでまさか此処で待たせるつもりか。

康安殿から突然飛び出したあの方をチャン御医が診断している間、ドチは一つ憶えのように待てとしか繰り返さぬ。

此方でお待ちください、王様。
御医が診立をお持ち致します、王様。
ご心配には及ばぬかと思われます、王様。

「医官でないそなたに何故判るのだ!!何かあったらどうする!!」
堪忍袋の緒が切れて叫べば、ドチは自信あり気に頷いた。
「医官ではございませんが、畏れながらあの王妃媽媽の御様子には、些か覚えがございます」
「・・・何」

何故あの方の苦し気な様子を、ドチが見知っておると言うのだ。
「王様。典医寺チャン医、参りました」
その時表より掛かった声に、ドチは跳び付くように扉を開いた。

 

 

 

 

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