2016 再開祭 | 貴音 ~ 留守居・陸

 

 

その体を洗う布端を、吾子がいきなり掴むと力任せに引張った。
小さな手がヒドの支えから離れた途端、引張った己の勢いで、そのまま派手に桶に張った湯の中へ転ぶ。
「おい!」

引張られた布はそのままに、慌てて湯の中から吾子を掬う。
吾子は泣きもせず頭からびっしょり濡れ、その手に石鹸を擦り付けた布を握り締め、何故かヒドの黒手甲をごしごしと擦り始めた。

擦られていた石鹸で、あっという間に泡が立つ。
吾子は手にした布を湯の中へ放ると、次に石鹸だらけのヒドの手を湯の中へつけろとでも言うように引張り続ける。
ヒドが動かないのを見るや、また癇癪を起こすよう高い声が上がる。
「ぃーやーーっ!」
「・・・漱げと」

俺が声を訳すと、ヒドは諦めの息と共にその手を桶へと漬ける。
そして暫し擦ってその手を上げて、吾子に向け示して見せる。
「良いか」

吾子は満足気に頭から水を垂らして頷くと、ヒドに大きく笑う。
「ちょんそ」
「・・・今のは判ったか」
「ああ」

ヒドは困ったように頷いた。チョンソ。綺麗と。
あの方の口癖だ。

きれいにしようね、ご飯の前に。洗えばすぐきれいになるわよ。
汚れたら洗えばいいの。オンマが洗ってあげる。
ほら、きれいになったでしょ?

吾子の飯の前。外から帰るたび。
庭で泥まみれで遊ぶたび。雨上りに転ぶたび。
コムを手伝い庭の薬木の植え替えをするたび。
毎夜の風呂のたび。朝夜の歯磨きのたび。

深い意味など無いかもしれん。いや、きっと無いのだろう。それでも。
「ヒド」
「何だ」
「もう綺麗だ」

その声に困り果てた唇を結び、ヒドは最後に溜息のように笑う。
「ああ」
「さて、次はお前だ」
「・・・風邪をひく前にな」

俺の声にもう一度、ヒドは吾子を確りと両手で支えて桶に立たせた。

 

*****

 

「おいおい、風呂上がりは一段と別嬪だな!」
「ほっぺたがぴかぴかしてるぞ」
「うん・・・けどさぁ」
吾子を抱き東屋へ戻った途端に上がる男達の歓声の後、シウルが俺とヒドを見比べて呟いた。
「旦那とヒョンは濡れ鼠じゃねえか。どうしたんだよ」

その声に顎で頷き、師叔へ向き直る。
「床を拭く物をくれ」
「床ぁ。何でまた」
「水溜りが出来た」
「そんなもん構やしねえよ。こいつらに拭かせる。シウル、チホ、行って来い。お嬢は昼寝させなきゃなんねぇぞ」
「判った」
「ちょっと待ってな」

いつもなら不平の一つも飛び出すだろうに、奴らは二つ返事で素直に離れへと我先に駆けて行く。
確かにこの濡れ衣で吾子を抱いている訳にはいかん。
「師叔」
「おう」
「俺も拭いて来る。その間、抱いててくれ」
「任しとけ」

散々遊び腹一杯に喰い、湯浴みも終えて眠いのだろう。
抱いていた腕の中から師叔へと渡った途端、珍しく吾子が愚図る。
「あぱ」
「すぐ戻る」
「あんでー」
「待ってろ」
「あーーぱーーー」
「ああヨンア、お前が抱いてろ。俺が拭いてくる」
「いや、この濡れ衣では」
「じゃあおぶっててやれ。背中は濡れてねえぞ」

師叔はこの背を確かめると、抱いていた吾子を俺の背に被せる。
「確りおぶっててやれよ。すぐ帰って来るからな」
「師叔」

やはり年寄りは気が早い。
見る間に離れへ駆けて行く師叔を見詰めて息を吐く。
「ヒド」
「・・・何だ」

共に離れから東屋へ戻った奴も、髪の先から下衣の裾まで濡れそぼり俺を見て首を傾げる。
しかし師叔に床を拭かせて、俺が暢気に休むわけにいかん。
「吾子を頼む」
「お前でなくば愚図る」
「試してみろ」
「ヨ」

これ以上何かを言われる前にと吾子を背から降ろし、その背へ覆い被せる。
背の感触の違いか。
吾子は目を開けヒドの横顔を認めると、瞼を閉じてその首に腕を回し背中へぺたりと張り付いた。
「終えたらすぐ戻る」
「ヨンア」

背中の吾子の眠りを気にする余り、でかい声は上げられぬのだろう。
蚊の泣くような声で、それでもヒドは精一杯俺へと怒鳴る。
その声に頷いて離れへ駆ける。

部屋の床を拭き吾子を寝かしつけ、そして起きれば夕餉。
それが終われば再び襁褓を替え、体を拭いて戌の刻には寝かしつけ。

あの方の大きさが今更改めて身に沁みる。
昼に役目を熟し、空き時間にこれだけの事をやっている。
総ての母がそうなのだから、夫が妻に感謝し慈しむのは当然だ。
飯も襁褓替えも、湯浴みも着替えでも、二人でするのが当然だ。

ましてや二人が手空きなら妻を休ませ、夫が子を世話するのも。
あの方が帰って来たら、今一度確りと伝えねばならん。
子を育てるのに休みは無い。役目と違い今日は休みと決められん。
無理矢理にでも休む日を決めねば、またあの方が無理を重ねる。

此度倒れれば冷えるのは俺の肝だけでは済まん。
誰より俺達の吾子が悲しい思いをする事になる。
吾子が幼い頃の俺のよう淋しい思いをせぬ為に。
あなたがあの頃の母上のよう、心を痛めぬ為に。

話し合わねばと思いつつ離れに足を踏み入れる。
あの頃毒に倒れたあの方が伏した事もある離れ。
蒼い顔で寝台に眠るあの方を見るなど、二度と御免だ。
どうせ見るなら吾子の昼寝の健やかな寝顔だけで良い。

 

 

 

 

3 件のコメント

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    ウンスが 似てるって言うんだもん
    吾子の目にも あぱ に 似てるから
    安心なのよね
    きっと。
    まぁ あらためて
    子育ての大変さが わかって
    なによりです。
    ヨンは お役目があるからと
    ウンスは ヨンにあれこれ言わないだろうけど
    手伝う気持ちは大事だわ。
    ヒド 吾子に洗ってもらって
    癒されたかな? 少しはこころが
    かるくなるといいなー。

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    ヒド、心も洗われたような気持ちなのでは…?
    ヨンも、娘の何でもない行動に
    心の中で感謝してるでしょうね(^^)
    ホロリとしたお話しでした(^^)

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