診察部屋の窓の外、チェ・ヨンは腕を組み外壁に背を凭れて眸を閉じていた。
部屋の窓には衝立が立てられ、部屋の様子を窺い知る事は出来ない。
温かい時節なら来る者を拒まずに開け放たれている扉も、薬員の手により確りと閉ざされた。
先刻までの慌ただしき動きの気配が止み、突然部屋が静まり返る。
チェ・ヨンは眸を開くと、首から上を振り向けてその窓を見た。
始まった。あの方の戦が。
そしてその戦場の一兵卒にも成れぬ己は、此処で護るしかない。
あの方の行く道を誰にも邪魔立てさせぬよう。
思うがままに悔いなくその手腕を揮えるよう。
祈るように窓の中見えぬ姿を心に描き、その面影に呼び掛ける。
あなたなら大丈夫だ。此処は必ず護ってやる。
そして首を戻すと、目前の典医寺の庭を見る。
庭への投げ文から始まった一日がようやく暮れようとしていた。
傾いた春の陽は淡く西空を染め、典医寺の薬園を斜めに照らす。
庭の草木は陽射しの降らせる光の粒を浴び、鴇浅葱の影を落とす。
温かい風は柔かく吹き渡り、地に伸びる草木の影を優しく揺らす。
こんな美しい日にもし子が生まれたならば、どれ程嬉しいかとチェ・ヨンは思う。
この世の総てが愛しい妻を、そして生まれ出ずる赤子を祝福している気分になるだろう。
長閑な春の晴天の日にも、息まで凍る吹雪の日にも、人は等しく生まれ、そして去って行く。
誰よりそれを判っていても。
夏の照り付ける灼熱の陽の下、秋の舞い散る紅葉の影、誰よりもその命を奪って来た己が。
それでも、と思う。
それでも赦されるなら。あなたさえ許してくれるなら。
そして答は、誰よりも自分が知っている。
一度だけ瞬きをし、誰も見ぬ者のないチェ・ヨンの眸がすうと優しく細まった。
いつでも良い、時節など。花でも雪でも。晴天でも曇天でも。
嵐でも雷でも、ただあなたが元気で、無事に健やかな吾子を生んでさえ下されば。
それが父ではないのか。男ではないのか。
共に戦場に立てぬからこそ、生涯を懸けて護ると誓う。
それだけが命を生み出す女人に伝えてやれる、唯一の約束ではないのか。
それが出来ぬなら子など成すべきではない。
浮かれ女を相手に、身も固めずに遊び回って居れば良い。
決してそれが悪いわけではない。
命を懸けて護る事を知らぬ者に、命を懸けて子を成そうとする相手など要らぬのだ、初めから。
誰よりもそんな二親の間に生まれる罪なき赤子が不幸になる。
そして次にオク公卿が放った言葉の詳細を考えた。
ウンスが邸で叫んだ言葉の端々から推察できるのは、子が要らぬと言ったであろう事だけだ。
子が要らぬ。その一言にウンスが怒り心頭に発するのも当然だ。
誰より命を大切と知り、そして誰よりも輝いて生きているから。
そんなウンスを拐してまで、身重の妻も腹の赤子も要らぬと言ったのなら。
その経緯になど興味はない。仔細を知ろうとも思わない。
しかし、とチェ・ヨンは思う。
それが如何なる経緯であれ、抜き差しならぬ事情があったにせよ、あの男が犯した罪は消えぬと。
ウンスに手を掛けた、チホの言葉から察するに袋に詰めて邸へと運び込んだ。
それだけでチェ・ヨンには充分過ぎる。
ウンス自身が許そうと、王が高官相手と温情溢るる軽い罰に留めようと、赦す事など出来ない。
赦せば即ち、典医寺への賊の出入りを許す事になる。
事情があれば医仙に手を掛けるのを許す前例を作る。
そんな事が起きると考えただけで眸の前が真赤に眩み、咽喉元まで苦い水がこみ上げる。
そんなふざけた真似を赦すくらいなら、此度で綺麗に終わらせる。
遺恨の欠片一つ残さぬよう、次の者が愚かな考えを起こさぬよう、拐しに関わった全員を錆びぬ鬼剣の錆にしてやる。
先刻までは呼ぶ事を躊躇ったオク公卿の到着が、今や待ち遠しい。早く来いとすら願う。
ウンスが何を目論んでオク公卿を呼びつけたにせよ、此度の件に関わる全員の前で白黒つけてやらねば気が済まない。
チェ・ヨンは思いながら、金色に輝く夕景の薬園の先を見据えた。
その時光の中に左右をチュンソクとテマンに固められた影が横切り、治療棟への木の段をゆっくりと降りて来る。
委細までは知らぬ二人も、ウンスの拐しだけで腸が煮えくり返っているのだろう。
険しい目付きで挟んだオク公卿を両脇から睨みながら、険悪な雰囲気で。
そしてチェ・ヨンを見つけると一旦止まって深く頭を下げ、それから足早に公卿を引立てて小走りにやって来た。
「大護軍、お連れしましたが」
「ああ」
チェ・ヨンが頷くと、チュンソクは露骨に信用ならぬという顔でオク公卿を睨んだ。
「医仙が御呼びだと・・・」
「そうだ」
「自分らも外で待っております」
「頼む」
「は」
チュンソクとテマンが頭を下げる中、チェ・ヨンは公卿を伴うと診察棟の扉へ向かう。
その前に立って腕を上げ、大きな掌で扉を叩く直前
「おかしな真似をすれば斬る」
それだけ呟き、返答は待たずにチェ・ヨンの掌が扉を打った。

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自分の大切な人が
命をかけて子どもを産むんですよ
どんなに幸せなことか…
子どもの誕生を
心待ちにしているとばかり思っていたら
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