2016 再開祭 | 金蓮花・拾壱

 

 

「逃走した、ですと」

安全札を確かめようと、出向いた徳成府院君の邸。
いくら謹慎処分とはいえ、いつの間にこれ程人相が変わったのだ。
元来良い相とは世辞にも言えぬ男であったが、その落ち窪んだ眼窩も土色に窶れ果てた頬も、まるで地獄絵の餓鬼の如き形相だ。
「逃走した、ですと」
再びの徳成府院君の枯れた声。
その顔を鼻先へ突き出された上、鬼気迫る気に圧倒され思わず数歩後退る。
しかしこの男が私を政の場に担ぎ出した事には違いない。
実妹の奇皇后に通じ、金と力に掛けて高麗では断事官以上の権力を握り、無から有を生み出す錬金術師のような者などこの男をおいて他に無い。

だからこそこうして出向き、医仙の逃走を教えてやったものを。
「そうだ。チェ・ヨンと二人、北の国境地帯を目指しておるらしい」
「何故医仙が、あの男と共に居るのです」

その目に睨まれ思わず声に詰まる。この男の騙し難さと来たら、あの断事官の比ではない。
「ああそれは・・・詳しい事は分からぬが府院君、そなたに知らせんと参った次第。
しかしこれで見つければそなたは医仙、私は玉璽を手に入れられる」
「何処で逃走を知った」

騙されるほど愚かではない男。じわりじわりと此方へ寄る府院君の表情、纏う殺気と冷たい迫力に押され後退る足が止まらぬ。
「徳興君媽媽。貴方様が故意に医仙を逃さぬ限り、あのチェ・ヨンと共に皇宮を抜けられる訳がない。
我が屋敷、ここに私と共に居られるべきの医仙が」
後退った最後の一歩、硬いものに背を邪魔される。

肩越しに振り返る。
いつの間にやら無音でこの背を塞いでいた白髪の若い男の持つ大笒で、退路を絶たれた形になる。
徳成府院君。この男こそ私の最大の安全札では無かったのか。
何があろうと医仙を手に入れる為には、私が必要では無かったのか。
あの医仙が欲しいなら幾らでもくれてやる。私には何の未練もない。私が欲しいのは身の安全の確約だけだ。
それ以外の者が生きようが死のうが、関わりもなければ良心も痛まぬ。

そして我が身を守る為ならどんな手段を用いても切り抜けて見せる。
お前は医仙が欲しい。私は王座が欲しい。
それを叶える為にあの小賢しく愚かな甥、それを守るチェ・ヨンが邪魔だという事が、互いに一致していたのではないのか。

「待て、府院君。私には医仙を取り戻す秘策がある」
そうだ、その為に解毒薬のない毒を打った。解毒薬があると伝えれば、あの女は必ずやって来る。
あの女は無理としても、チェ・ヨンは幾度でも来るだろう。
そしてどれ程私を痛めつけようと、殺す事だけは絶対にせぬ。何故なら殺せば解毒薬が手に入らぬ事を知っているからだ。
ありもせぬ解毒薬の為に、忠犬の如く何度でもやって来る。あの女に心底惚れ抜くあの男なら。

「貴様の秘策など、最早飽き飽きだ!」

徳成府院君の冷気を帯びた手がこの喉元へ伸びた瞬間。
自分のその手に引き倒されるよう、府院君が顔を歪めて床へと膝を着く。
そのまま床で悶え苦しむその体に手を掛け、叫ぶ手下達に囲まれた府院君。
「舎兄!」
「ナウリ!!」
その大騒ぎの耳障りな声に考える。
この男と結ぶべきか、手を切るべきか。既に正気を失っておる。物事の分別も全くついておらぬ。

手を結ぼうと切ろうとも、今や私の望む身の安全は風前の灯火。
解毒剤の無い毒をあの女に打ったと判れば、私を殺すのは府院君か、それともチェ・ヨンか。二人に一人だ。

何を置いても露呈してはならぬのは、あの女に用いた毒の種類。
あの女は死ぬしかない。あの女を殺した私を、二人のどちらであれ生かしておくわけがない。
もう一度改めて思いつつ、床を転げまわる府院君を冷静に見る。

まだ死なれては困るのだ、府院君。そなたにはまだ使い道がある。チェ・ヨンはそなたに殺してもらう。
しかし使い道があるからと府院君を残し、此方が殺されるのも損。
私は玉璽が欲しい。確実にそれを手に入れられるなら、駒として扱われるのは構わぬ。
しかし確実に手に入れる為には、私自身の手の中の駒が足りぬ。

あの甥を追い落とす駒。玉座から引きずり降ろす為の駒。
そうだ。目障りな者は排除する。出来ぬ者には自滅してもらう。

甥の自滅を誘う為の駒。
チェ・ヨンと医仙を排除した今、たった一つしか残っておらぬではないか。

府院君の豪奢な邸の胡風の窓の外。広々と伸びるその枝の重なる紅葉の奥を透かし見る。
甥の自滅を誘う決定的な駒。それはあの皇宮、坤成殿の中に。
征東行省の断事官の卓上。誰でも触れる事の出来る場所に無造作に置かれた印章を思い出す。

あの坤成殿の主を確実に呼び出せるのは、元の印章の押された親書。
頭の中で素早く計略を巡らせ、目前の苦し気な府院君の様子を眺める。

何と厄介だ。先刻のように正気を失われては、この男も早々に手に掛けるしかないではないか。

 

*****

 

打ち捨てられた破屋での一夜。
朽ちた窓枠の外が白むのを待ち、細い肩を静かに揺する。
「イムジャ」

まるで幼子のよう半ば開いた唇から、安らかな寝息が届く。
こうして聴く限りその息に、昨夜の苦し気な乱れは感じん。

あの息は何だった。
闇に紛れて額に手を伸ばし確かめても、懼れた高熱は無かった。
身を硬くし襟元を抑え体を丸めるこの方を一晩見詰め、寝顔を守るしか無かった。

朝陽の中に安らかな寝息を聞けば、肚奥の一晩分の不安が溶ける。

いつまで聴けるだろう。その寝息をこれ程の近くで。
息をしている。生きている。熱はない。眠ってくれ。

確かめるよう静かに触れる事を許されるこの刻は、どれだけ残されているだろう。

少なくとも残る十と九日。
開くまで、帰りを見届けるまで必ず共に。
存分に寝かせてやる事も出来ぬ。それでも一刻も早く天門へ。
天界へ戻ればあなたは二度と、苦しむ事も追われる事もない。

「起きて下さい」
ほんの僅か耳元に寄り、白い耳朶へ声を落とす。
奇轍から。徳興君から。断事官から離れ、一刻も早く天門へ。
「発ちます」

その声に眠そうなあなたは目許を擦り、温かい欠伸を一つ漏らした。

 

 

 

 

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