2016再開祭 | 茉莉花・卅陸

 

 

「仔細については、一切他言出来ませぬ」
判院事がそれを不安に思うのは、自身に後ろめたさがあるからだ。
しかしそれが仕来りであり皇宮法度。
王との拝謁時の話の内情、まして人払いの中で交わした報告がどれ程重要なものか。
高官であるこの判院事なら、判っていて当然だろう。

だがこの丸々とした男には、厳然たる法度よりも守りたいものがあるらしい。
「まさか、琴珠の」
「大監」
此方が敢えて黙っているのに、何処に耳が隠れるか判らない場所で尻尾を出す愚行。
チェ・ヨンは判院事の軽い口が滑る前に、厳しい声で釘を刺す。
「お忘れ下さい。某も忘れました」

その為に欲しくもない仔馬を人質代わりに貰い受けたのだ。
一人の男が家族を守る為にと、己を人質に差し出したから。
家人の火傷が治った、大丈夫だとウンスが笑ったから忘れた。
そうでなくば今頃お前は、その赤い官服を纏っていられない。

人々の犠牲と献身と配慮も知らずにのうのうと。
人が好ければ何をしても許されるわけではない。
可愛がっているつもりの娘を、救いようもない道へと押しやっている。
家門と儀賓の力がなければ見向きもされない、自分以下の人間に。
それは愛情という名の虐げだと、チェ・ヨンは思う。

お前が死んだ後はどうする。女人には家督は継げない。
その時全ての力を失くし、生きていく上で大切な心も知らない娘は誰にも見向きされず、力も貸してもらえずに泣く事になる。
死んでから一体どう守るのだ。財産などすぐに食い潰される。
その気になれば世渡りの知恵もない娘を騙すなど、赤子の手を捻るも同然だ。
それが心配なら体を絞り、健康に百まで生きる気概を見せろ。

こうして少し追いかけただけで滝のような汗を流し、息を切らしている男。
鼻先にあの時のウンスのように指を突き立て、怒鳴りたい言葉は千も万もある。
しかし判らぬ者には絶対に判るまい。自分の陰で何人の者が無言で自分を守り、支えているかなど。
知らぬ者に一から教え込むような面倒は御免蒙る。

それでも最低限の礼儀として頭だけは小さく下げ、チェ・ヨンは回廊を歩き出した。
「大護軍!」
この声を信じられぬ者に何を言っても無駄だ。
忘れる訳がない、たかが馬一頭でと、判院事は去って行くヨンの鎧の背を掴もうと慌てて手を伸ばす。

太い指が麒麟鎧の端へ届く前に、ヨンは半身を翻し鞘に収めた鬼剣を上げ、己と判院事の間に構えた。
鞘とはいえ向けられた正真正銘の刀の圧力に、判院事の顔が強張る。
鞘でこれ程怯えるのならいっそ抜いてやれば良かったと思いつつ、チェ・ヨンは判院事に吐き捨てる。
「判院事大監。武人の背から寄るのはお控え下さい」

ヨンは正身で向き合い直すと、ようやく掲げた鬼剣を下げる。
「斬られても文句は言えませぬ」
「わ、悪かった。すまん、つい」
すまん、つい。それ程娘の罪を隠すのに必死なのだろう。
それならば大切なのは、犯した罪を庇い立てすることではない。
庇わねばならぬような罪を犯さぬ、真直ぐな心を教える事なのではないのか。

自分の与り知らぬ事だ。儀賓が関わる以上、口出しも無用とチェ・ヨンは最後に確かめる。
「お忘れですね」
「大護軍は、本当にそれで良いのか」
「王様へのお心変わりは許されませぬ」
「判った、約束する。命に懸けても絶対にそんな事はせぬ!」

命など望んだ覚えはない。チェ・ヨンは大仰な誓いに笑いをこらえる。
その言質が取れれば良い。頷いて歩き出したヨンの背に、判院事が精一杯の声を上げる。
「感謝する、感謝する大護軍!!」

性根の悪い男ではないのだろう。せめてそう思いたい。
考え方はそれぞれ違う。けれど自分が父になったなら。

離れる判院事の声に送られて二度と振り返らず、形すら見えない先の日をチェ・ヨンは想う。

いつの日か父になれたなら、何を教えるよりまず人として教えたい。
人を労り思い遣る心を、判らぬ事に頭を下げ教えを乞える素直さを。
悪い事をした時には詫びる心を、良い事をした時には隠す謙虚さを。
生きる知恵がそれだけあれば、あとは。

黒い瞳が天を仰ぐと、陽射しの眩しさに細まった。

あの太陽のような、咲く花のような優しく強い母が教えるだろう。
人とはどうあれば良いのか、どう生きて行けば良いのか、言葉ではなく生きざまで。
何より得難く尊い教えとは、千の言葉より一の行動で示す事だ。

見せる謂れも所以もないのに、ウンスはそれを示して見せた。
あの娘が賢ければ何か学ぶだろう。愚かなら見過ごすだろう。
どうなっても自分に関わりはないと、チェ・ヨンは思う。

人として一番哀れなのは、怒られずに見捨てられる事だ。
誰にも心を傾けず、傾けられもせず通り過ぎられる事だ。
言った通り。もう全て忘れた。どうなろうと関係はない。
この先は道ですれ違っても気付く事も振り返る事もない。

忘却こそがあの娘への最大の仕打ちだと、チェ・ヨンにはよく判っていた。
それを大声で喜んだ判院事。それが愛情だと思うなら貫くが良い。

判院事の庭で嗅いだ花の香と同じ、茉莉花の香が漂う夏の皇庭。

そう言えばあの花で拵えた茶があると言っていた。
そんな言葉を思い出したヨンは、回廊の足を速める。

今回の一件で手に入れたのは茉莉花茶一袋と仔馬一頭。
欲しかったチュンソクと敬姫の安寧と、王の後ろ盾の確約。
そして一つの尊い命を救った後の、花のような満足な笑顔。

悪い取引ではなかった、そう思うしかないとチェ・ヨンは自分に笑う。
急いで典医寺まで逢いに行こう。顔を見て、そして一緒に茶を飲もう。

そこに漂う花の香は、この茉莉花とも何処か似ている気がするから。

 

 

 

 

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