2016 再開祭 | 金蓮花・陸

 

 

坤成殿の華やかな彩の柱影、中庭で叔母上の戻りを焦り焦りと待つ。
気掛かりだけが残る。あの方を先に行かせ、己もこうして発つ直前になってまで。

元の断事官という最強の後ろ盾を得、その手駒に収まった薄汚い鼠。
謹慎を喰らおうと如何出るか、未だ予想すらつかぬ徳成府院君奇轍。

最初の民になるとの誓いを翻し、ご自身で動いてはならぬとこの口で諫めた王様を残して行く不安。

だからこそ無断で去りたくない。お目通りの叶わぬ意味が判らない。
迂達赤への予めの通達もなく、突然開かれた都堂会議。
宣任殿。待ち侘びるとおっしゃいながら寸前で入室を拒まれた理由。
難しい顔で俺から目を逸らし、部屋を後にした重臣達。
首を振ったトクマン。部屋内の遣り取りの明言を避けるチュンソク。

鬼剣を支えに回廊の柱へ凭れる耳に、その扉の開く音がする。
出てきた叔母上は俺を見つけると何を問う事もなく歩み寄る。
「何故王様は会って下さらん」

理由は告げず無言のままで、回廊から中庭への階を叔母上が降りる。
人目を避けたその場所で、ようやく短い待ち望んだ声がする。
「王様に、それ程大切な御用か」
「暇を頂きたい。それが駄目なら」
「許すと仰せだ」

叔母上も何故俺を見ぬのか。
先刻から目を逸らしたまま、中庭の石へ腰を下ろした。
誰も彼もだ。皆がこうして此方から目を逸らす。

「許す故、直ちに発てと。王様はおっしゃった。医仙を連れ一心に逃げよ。そして媽媽からは医仙によろしくとな」
叔母上は無表情のまま、平坦な声で続ける。
「王様が医仙の引き渡しを決断なさった。故に王命が下る前に出立した事にせねば、お主は王命に背いた事になる」

この胸に残る疑問を解くならば、今しかない。
俺は回廊の階へと腰を据え叔母上を見つめた。
「何故あの方を欲しがる。元の役に立つとは思えぬ」

叔母上はそれに答える事はなく、俺の問いに問い返す。
「一つ聞くが、医仙を天門の在処へお連れするのか」
「そうだ」
「お主は此処に留まり、手裏房に連れて行かせるのはどうだ」
「来月十五日まで。残り二十日ある。それを諦め、此処で別れるなど」

それが出来れば足掻かない。出来るなら最初から走らない。
それが出来るなら心が走り出してから気付く事は無かった。

じっとしていられない。留まれぬから走るのだ。
どれ程遅くなろうとあの最初の誓いを叶える為。
必ず天界で生きて頂く最後の願いを叶える為に。

「今まで積み重ねてきた功績全て、その二十日の為に棒に振るのか。二度と皇宮に戻る事は叶わぬかも知れん」
叔母上の言葉に息だけで笑む。

功績とは一体何だろう。此処に居た七年間。
戦場で死ねる日を数え、そして周囲の奴を巻き込まぬようにと考え、ひたすら日々を潰して来た。

歴代の王が心配だったわけでも無い。迂達赤の役目だから守った。
成したくて成した功績など一つとして無い。
そんな俺が残したものなど、二十日どころか一日の価値すら無い。
「叔母上」
「何だ」

此度は俺が眸を逸らす番だ。こんな不肖の甥でも、聞けば叔母上を傷つけるかも知れぬと。

「俺はこの七年皇宮で過ごして来た。だが思い出が何も無い。そんな俺に失うものなど」

眸を上げればやはり叔母上は何処か辛そうに、深く細い息を吐く。
「行く」
そう言って階から腰を上げると、続いて叔母上も立ち上がる。
「捕まるな」

どうにか抑えても悲痛な響きのある声に、回廊を進むつもりの足が止まる。
「医仙は元へ連れて行かれるのではない。あの断事官は、医仙の公開処刑を要求している」

振り返るつもりはなかった。 発つ俺が振り返る事は出来ぬ筈だった。
それでも振り返らずにはいられない。
庭から回廊の俺を見上げる叔母上に、問いかけずにはいられない。

徳興君に、そして奇轍に、そして重臣に対する最大の手駒。
それがあるからこそ王様の盤石の礎の一つだった筈の医仙。
この世の叡智を超えた智慧と、誰一人知らぬ先を見通す力。
比類無き神の医術で、王妃媽媽の御命を救った天界の女人。

その方を引き渡すにしろ処刑するにしろ、王様がその条件を呑めば。

「医仙がいなくなったら、王様の身はどうなる」
「・・・断事官の言葉に由れば」
「いや」
叔母上の声を聴いていられず途中で遮る。
そうだ。選んだ筈だ。長い自問自答の末に。
何を捨てても諦められぬと。何を失っても喪いたくないと。
何を違えてもあの誓いだけは必ず果たすと決めた筈だ。

「言わないでくれ。聞いたところで結局俺は、此処には残れぬ」

捨てねばならぬ物、決して捨てられぬ者。
違えねばならぬ約束、必ず叶えたい誓い。もう決めて選んでいる。

「今皇宮を去れば、二度と戻る資格も無い」
捨てねばならぬ物、違えねばならぬ約束の大きさとその罪の重さ。
「・・・それなのに今更、王様の身を案じても仕方ない」

俺は捨てるのだ。あの時己が王と選んだ方を。
この七年、死なぬようにとだけ祈った奴らを。
この世に唯一残った、血の繋がった叔母上を。

許される訳など無い。戻れる程度の過ちでは無い。
それでも心が走る。だから立ち止まる事は出来ん。

進むその坤成殿の回廊。全て起きてからでは遅い。
断事官が俺の顔を確かめた。追手は掛かっている。

一刻も早く、一寸でも遠くまで。

この顔を見知っているならば、目晦ましも必要だ。
例え子供騙しの拙い手でも、せぬよりはましかも知れん。

身體髮膚 受之父母 不敢毀傷 孝之始也

孝経の一節が頭を過る。
父上、母上、お許し下さい。
不肖の息子は立身行道で孝の終わりどころか、頂いた髪すら守る事は出来ません。

心の中で頭を深く垂れ、回廊を大門へ抜ける途中で曲がる。
回廊の隅に設えた目立たぬ物置代わりの小部屋の中へ滑り込み、下衣の脛に括り付けた小刀を抜く。

額巻を解けば伸びた髪が支えを失い、鬱陶しく目許へ流れ落ちる。
考の始めに背こうとも、これで全ての心残りを断ち切れるなら。

構え直した小刀が、物置部屋の窓からの秋の陽に光る。
左手で握る総髪の根元にその刃を当て、俺は小刀を一思いに引いた。

 

 

 

 

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