2016再開祭 | 茉莉花・廿玖

 

 

厩舎の脇に繋がれたままの仔馬は、目の前を行き交う者らを見ながら神経質そうに耳を動かしている。
チェ・ヨンの家で好き勝手に振舞い、愛馬まで追い出す羽目に陥ったあの馬と同じには到底見えない。

こうして見比べて判る。
仔馬は群れの序列は知らないなりに、ヨンの宅ではのびのびと楽しそうだった。

厩舎の中の水桶はいつまで経っても満たされない。
どうやら人間の事だけを考えたこの邸の井戸は、裏手の厨の傍にあるらしい。
おまけに一度に水を運べるような大きな桶まで用意がないのか。
先刻から家人が入れ代わり立ち代わり、小ぶりな桶を手に厩舎と庭の裏を往復している。

これから毎日水遣りにこの行列かと思うと、先行きは暗い。
呆れ顔のチェ・ヨンの横、手桶の行列を見ていたウンスが、一人の奴婢が桶を抱えて歩いて来た途端、急に大きな声を上げた。
「あのっ!」

その声にチェ・ヨンがウンスを確かめる。
自分の事だとは思わなかったのだろう。
粗末な身なりの奴婢はウンスとチェ・ヨンに頭を下げ、水桶を抱えたまま厩舎内へ進もうとした。
「待て」

只事ではないウンスの大声に、ヨンは咄嗟に奴婢の抱える水桶を取り上げる。
急に両手の中が軽くなり、奴婢は不思議そうにヨンが奪った桶を見詰めた。
「待って、待ってください。ねえ!」

ウンスは顔色を変え、空になった腕を隠す奴婢の袖をそっと捲った。
医の心得のないヨンにもすぐに判る。
袖の下、奴婢の肘から先が手首まで赤黒く爛れ、ところどころに水疱が出来、膿が滲んでいる。
「何があったの。いつ?熱傷でしょう?どうしてそのままなの?薬は?どうしてるの?ちゃんと塗ってますか?」

ウンスは矢継ぎ早に質問を浴びせ掛けながら、その傷を確かめる。
奴婢は傷が痛むか、頼みもしないのに突然患部を診られて驚いたか、無言でウンスを見つめたままだ。
返事が返って来ない事よりも今は傷の状態が心配なウンスは、奴婢に声を掛け続ける。
「こんな汚れた服じゃダメ、ばい菌が入っちゃう。この袖、切りますよ?許してね?ああ!」
最後に悔しそうに小さく叫び、ウンスが唇を噛み締めた。

「ヨンアちょっとここで待ってて。すぐ戻って来る。典医寺に全部置いて来ちゃったの、道具。
すぐ消毒したい。必要なら切開手術になるかも」
そう言って奴婢の衣と同じくらい煤けた額に手を当てて熱を確かめ、火傷をしていない方の腕で脈を取る。
ウンスの慌ただしい一連の動きで、傷の深刻さがヨンにも伝わる。
安心させるのが先決と、チェ・ヨンは懐の警笛を取り出し鋭く吹き鳴らした。
あの娘が厩舎をぶち壊した時の為に見張らせておいたが、ここで役に立つとは思わなかったと考えながら。

隣家の屋根の棟に上っていたテマンの影が判院事の屋根へ飛び移る。
そこから張り出した枝を掴むと幹を伝い、瞬く間に庭を駆けて来た。
「テマナ!」

ウンスは突然姿を見せたテマンに安心したように息を吐き
「ごめん。あのね、典医寺のいつもの道具。私の部屋にピンク色のポジャギがあるから。
それとキム先生に聞いて欲しいの。猪蹄湯と紫雲膏、あと排膿散及湯の材料をくださいって、聞いてくれる?」
「ポジャギ、猪蹄湯、紫雲膏、排膿散及湯ですね」

ウンスの声を繰り返し、テマンは指を折りながら唱える。
「ポジャギ、猪蹄湯、紫雲膏、排膿散及湯」
「うん。覚えられそう?もしダメなら、ひどい火傷に使う薬って言ってみてくれる?」
「すぐ戻ります!」

テマンはウンスとヨンに頷くと降りて来た木に飛び上がり、屋根向こうへと翻って消える。
「ヨンア」
「はい」
「その水、もらってもいい?少しでも早く洗って冷やさないと」
ヨンの腕に抱えたままの桶を指し、ウンスが尋ねた。
周囲を見渡しても桶を置く卓代わりがない。
ヨンは桶を抱えたまま、突然の騒ぎに立ち尽くす判院事へ振り返る。
「軒をお借り致します」

そう言うと返事も待たずウンスを眸で促し、判院事の主邸へと上がる縁側へ迷いなく歩く。
後ろを急ぐウンスに支えられて、奴婢が共に歩いて来る。
ヨンは縁側へ水桶を据えると腰後ろから小刀を抜き、
「切るぞ」

一声掛けて返事は待たず、ウンスが縁側に座らせた奴婢の薄汚れた袖を遠慮なく肩から切り落とす。
「こんなになるまで、痛かったでしょう。でもガマンもほどほどにしないと、後でもっと大変な事になっちゃいますよ?」
ウンスは赤黒く爛れた腕を優しく掴み、水疱を潰さないように自分の指で掬った水をゆっくり患部にかけていく。
「すぐによく効く薬が届きます。ちゃんと飲んで下さいね?軟膏も。傷が乾くのが一番いけないから、小まめに塗って」

患部に水をかけたところで視診してみる。火傷の深度は判らない。
けれど膿がほとんど流れたところを見ると、切開までは必要ないかもしれないと、ウンスは胸を撫で下ろす。
赤黒かったのも、皮膚の壊死ではなく汚れだったらしい。
水で流すと黒かった部分はほとんど落ちた。でも酷い熱傷には違いない。
「玉・・・じゃなく、えーと、大監?」

ウンスは怒り心頭で傷口を確かめた後、判院事を真直ぐ見たまま縁側から腰を上げた。
怪我人をこんな状態になるまで放って置くなんて、信じられない。
抗生物質も碌に手に入らない高麗で、重度の熱傷を放置して最悪の事が起きたらどうするつもりだと、考える程に腹が立つ。
ましてこの有力者の家。皇宮まで連れて来るのは無理でも、自分の存在は知っているはずだ。
キョンヒさまの叔父さんだし、あのパーティの日だってキョンヒさまのご両親と話していた。
ちょっと尋ねれば自分の連絡先だってすぐに判っただろう。

ウンスが厳しい声を上げたところで
「お父上、うるさくて写字が進みません!」

パシン!と苛ついたような音を立て、廊下を挟んだ目の前の立派な扉が開いた。

 

 

 

 

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