2016 再開祭 | 涵養・中篇

 

 

「千字文は二百と五十の段から成ります。
一段に四字が使われ、意味成すよう組み合わさっています。
まず、総て読めますか」

序の序、天地玄黃の一段を指すとこの方は既に首を捻っている。

「読めません、先生」
「・・・天地玄黃、宇宙洪荒」
「てんちげんこう、うちゅうこうこう」
「天、空の事です。天は玄く地は黄色、宇宙は涯無く広い」

紙に記した天地玄黃宇宙洪荒の横に、この方が何やら天界の文字を懸命に書き加える。

「何です」
「ふりがなを振ったんです、先生」
「・・・次。日月盈昃、辰宿列張」
「じつげつえいしょく、しんしゅくれっちょう」
「日は登っては落ち、月は満ちては欠け、星々は星座に宿り列を成す」
「これって自然現象の章って事ですか?先生?」

何と賢い方だと、思わずその小さな頭を撫でたくなる。

「その通りです。この十八段は自然についての段です」
この方は写本をした横にあの天界の文字で何やら書きつけながら、懸命に頷いている。

 

「・・・海鹹河淡、鱗潛羽翔」
「かいかんかたん、りんせんうしょう」
「海は辛く河は淡く。この鹸とは塩水、淡とは淡水の事です。
魚は潜り鳥は空翔ける。鱗とは此処では魚、羽とは鳥を意味します。
以上十八段が、自然についての段です」
「18×4で72文字・・・1000字中まだ72文字なのね」
「はい」
「頑張ります、先生!!」

この方は右手の筆ごと、小さな拳を握って振った。
その拍子にこの方の手に飛び散った墨を己の指先で拭って息を吐く。

この可愛い門下生にはまずは墨の磨り方からお教えせねばならん。
こんな緩い薄墨では小さな手も顔も、彼方此方汚れて仕方が無い。

 

*****

 

「チェ・ヨン殿」

典医寺に顔を出した昼餉時。

薬園を歩く背に掛かる声に振り向くと、キム侍医が頭を下げ此方へ歩み寄る。

「何だ」
「ウンス殿の事ですが」
「・・・何かあったか」

緊張した声音に首を振り、キム侍医は視線であの方の私室を示す。
「最近、常に千字文を持ち歩いていらっしゃるので」
「そうか」
「漢文は苦手とおっしゃっていましたが、何か心境の変化ですか」
「・・・さあな」
「お時間があると朗々と読み上げていらっしゃいます。得意げに」

あの方の様子が目に浮かび、思わず小さく笑う。
「チェ・ヨン殿が手取り足取り教えていらっしゃるとか」
「ああ」
「お忙しいでしょう。典医寺の空き時間には私が代わりましょうか」

その声に断固として首を振り、その愉し気な目を真直ぐ見る。
「手出しするな」
「しかし、二段から進んでいらっしゃいませんが」
「それで良い。詰め込まずに覚えて頂く」
「そうなのですか」
「放って置け」
「・・・畏まりました。朗読を伺うだけに致しましょう」

あのたどたどしい朗読の声を聞く男が他にも居ると思うだけで、肚の中が黒くなる。
聞けるだけでも幸運だと思え。
昼餉の間も惜しみ、三段の講釈をお伝えするため侍医を置いてあの方の許へ駆ける。

蓋此身髮四大五常 恭惟鞠養豈敢毀傷
そう始まる人の成り立ちを論じた段にある一文。

器欲難量 己の器量や慾は他から量り難いようにせよ。
しかしどうやらあの男には、この器量や慾は量り易い物なのだろう。
あの方を他の者には任せたくない狭量さ、他の墨には染めたくない慾が。

しかしこの段にはこんな一文もあるのだ。
墨悲絲染 朱に交われば紅くなるの例え通り、人の心は染まり易い。
あの可愛い門下生を、他の男の色に染めてなるものか。

 

*****

 

「樂殊貴賤、禮別尊卑」
「がくしゅきせん、れいべつそんぴ」
「楽も官位序列によって貴賤の違いがある。儀礼にも尊卑長幼の区別がある。
楽とは此処では音楽、禮とは尊ぶべき儀を指します」
「おかしいと思います、先生!」

この方が眦を決して俺を睨んだ。
「音楽に貴賤はないし、身分の低い人がすごい才能を持ってる時だってあるでしょ?
相手がどんな立場の人だって、儀礼は重んじるべきでしょ?」
「その通りです」

まさにそうだ。
人の上下や身分の尊卑。そんな下らぬ階級意識で生ずる差別くらいつまらぬものは無い。
総ては当人の努力と才が決める。

「ですからこの段は、俺も苦手です。文と字だけ覚えて下さい」
「はーい先生」
声を返し、あの方の指先が今一度書を繰り始める。
この段は気が重い。俺も解せぬものばかりだ。 何しろ結びの段は。

「堅持雅操、好爵自縻」
「けんじがそう、こうじゃくじび。舌を噛みそうです、先生」
「気をつけて下さい。意は行い堅く正し節度を守り己を律すれば、即ち高い官位に付くこと適う」

呆れた己の講釈の声と、講釈に呆れたこの方の溜息が交叉する。
「嘘よねえ」
「ええ」
「悪いけどあなた以外で、正しい行いだけしてる政治家なんて見た事ないわ。いつの時代も。
第一変じゃない?偉くなりたいから節度を守るの?そういう人が結果的に評価されるのが普通でしょ?」
「はい」

本気で呆れたように握った筆の尻を指先で弾き、あなたが言って首を振る。
この方のおっしゃる通りだ。固行を保ち節度を守り己を律する者なら。
民を喰い物にし、商人から暴利を貪り、血税を掠め取り私腹を肥やす高官になる筈が無い。
高官になりたいから己を律するのではない。己を律する術を知る賢人に官位が従うのが理。

既に私塾と化した様相の宅の居間。
今までは殆ど己一人で占領していた文机は、今は二つ並ぶ。
一つにあの方が、もう一つに己が座って、横並びに顔を見合わせる。

俺の門下生は、どうやらこの段では己と同じ考えを持つようだ。
互いに視線を交わし思い出したのは同じ顔か。
「奇轍も」
「そうね、それに徳興君も」

最悪だったと互いに息を吐く。
あの参理チョ・イルシンも江華郡主アン・ソンオも。
奇轍の手下だった御史大夫チャ・ウンも、元の断事官ソン・ユも。
互いに周囲の高官には、ほとほと恵まれぬ定めと見える。

千字文は字を教えはしても、正しい歴史の流れを見抜く力は無いらしい。
漢字に未だ暗くとも先を見通す澄んだ目を持つ、俺の自慢の門下生の方が余程賢い。

 

 

 

 

4 件のコメント

  • SECRET: 0
    PASS:
    千字文を、勉強されたんですか?
    お話をいつも素敵で引き込まれますが、内容も本当にすごいです♡
    お話を書く事への、努力?才能は、すごいです(^^)
    ありがとうございますと、さらんさんのお話を読める幸せに感謝ですm(__)m

  • SECRET: 0
    PASS:
    う~ん、昨日のコメント、撤回します!
    この「千字文」の漢字は、すごーく難しい!
    意味もあるし、その上、その意味に納得できないものも多い。
    ヨンのお父様やお祖父様、さらにその先祖様たちは、皆様素晴らしい文官だったのですよね。その血を引くヨンも、賢い。
    ウンスが、幼子のように、ヨンを「先生」と呼びながら学ぶ姿が浮かび、微笑ましいです。
    内容に納得できないと、ヨン先生に考えを訴えている賢いウンス。
    「千字文」とは、こんなに難しいものだったのですね。でも、これは、手習いのはじめ…。
    この後、四書五経。儒教の教典ですか…。
    無理~~!
    と、つい、叫びたくなります。
    でも、ヨンに手取り足取り、優しく教えてもらえるなら…、こんな鈍い私でも教えてもらいたいな(動機は不純デスガ…)。
    ウンス、ファイト!!

  • SECRET: 0
    PASS:
    さらんさん♥
    黒いヨンの胸の内…毒舌、
    たまりません。
    いえ、大好きです。
    それに此度のお話、
    読者の私もホント、ためになる!
    へええ~、そうなのかあ。
    ふうん、こんな熟語があるのね?
    と、いちいち頷きながら
    拝読しています。
    深いなあ…。
    漢字も、さらんさんのお話も。
    私も久々に筆を持ちたくなりました。
    もちろん、ヨンが隣りに
    居てくれたらですが…。
    えへへ(*'ω'*)。

  • コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です