2016 再開祭 | 涵養・前篇

 

 

【 涵養 】

 

 

「空・・・の、青」
「はい」

明るい西陽の入る居間の卓。
夕陽の中で、卓に広げた書き取りの千字文。

父上に四書五経を講義を頂いた、幼いあの頃の夕暮れのようだ。
蝉声も、庭を渡る夏の風も、木々の緑の濃さも。

まさか時を経て、己が教える立場になるとは努々思わなかった。
あの時。父上を亡くし最後の言葉を継ぐと決めた時。
見金如石。泣く暇があれば、国の為に小石を拾えと。

そして師父について行くと決めた時。
崔家代々継いできた文官としてでなく、武で国の為に何か成すと決めた時。

あの時に父上に頂いた教えは全て武の道に活かすだろうと、漠然と思った。
懐かしい夕暮れが、まさかこの日に繋がるとは。

空の青。
俺の声に頷き、この方が危うい筆遣いで卓上の紙に字を書き取る。
その横に己の筆先で蒼、碧を書き加えると、困った視線が上がる。

「これら総て、あお、と読みます」
「どう違うの?」
「色を表します。例えるなら蒼は冬の空の色。蒼褪めた、とも。
色を失う事です。碧はみどりとも読みます」

もう声は返らない。
その瞳は己の記した墨の手蹟を追い、唇があお、みどり、などと呟いている。

「山・・・の、緑」
「はい」
この方の手蹟の横に続いて翆、翠、碧と記せば、うんざりしたような細い息が聞こえる。
「ねえヨンア」
「はい」
「この調子で行ったら、色だけで何種類あるの?」
「・・・さあ」

数えた事など無い。問われて改めて思う。
「これを全部覚えたら、もう終わり?」
この方が救いを求めるよう、卓上の千字文を指した。
「・・・ここが始まりです」

首を振り、千字文を眸で示す。
千字文は読んで字の如く千字。そしてこれは初歩の初歩。
この千字を完璧に覚えれば、次は四書五経が待っている。

この声に愕然とするよう、あなたの筆先が紙上で止まる。
筆先に含んだ墨があなたの心模様のよう、じわじわと黒い点を広げていく。
「イムジャ」
「うん」

白い頬やら指先やらに派手に墨を飛び散らし、瞳がようやく紙から俺へ戻る。
宅の居間の文机前、並んで座り俺を見る顔。
郷校に通い始めたばかりの幼子のようだ。

墨を磨るのは文字の為より、友の顔に悪戯書きをする為。
そんな年頃のあどけない子が師に名指しされ、立ったは良いが答が判らぬ時のように、瞳が困り果てている。
「何故突然、漢文など」
「・・・うーーーーんとね?」

此度の問いは簡単だろう。
何も習わぬ文字を書けと言ったのではない。
何故突然学びたいのか、動機を確認しただけだ。
しかし不自然な程長い間を置き、この方は小さな声で言う。

「私が漢字が書けなくて、ちょっと・・・馬鹿にされたから?」
「・・・誰にです」
「えーと、えーーっと。名前は忘れちゃったんだけど?」
「調べます。男ですか、女ですか」
「じょ、女性だけど、でも」
「女」

腰を浮かした俺の袖を、墨で汚れた細い指先がすかさず掴む。
困った様子で眸を覗き込み墨の飛んだ白い頬で頭を振り、この方が俺の勢いを止めようと言い募る。

「いいの、いいんだってば!読めないんだもの、本当に。読めればほら、いろいろ便利じゃない?
あなたに頼ったり、叔母様に頼ったりしなくて良いんだし」
「貶されたのでしょう」

俺の低い声にその瞳が惑う。
「良いですか。あなたは確かに漢文は苦手かもしれません。
しかしこの世の誰も知らぬ文字を御存知の、唯一の方だ。
その文字が判れば、大食国の書物も読み取れるのでしょう」
「・・・あの辺は多分、アラビア語よね・・・英語ならともかく、アラビア語は全然知らないから・・・」
「では天界の文字は如何です」
「ああ、ハングルはまだそもそも今は発生してないから・・・」
「とにかく!」

とにかく、俺のこの方が他人から貶められるのだけは看過出来ん。
この方が面目を失う事だけは我慢がならん。
この方を貶めたその女とやらが、どれだけ優れていると言うのか。

眸から火が出るような腹立たしさに思わず拳を握り込む。
この方が。俺のこの方が。
かの華侘の神技の後継者として、この世にいらした方が。
唯一無二の天界の医術を操り、どれ程の深手も治療する方が。
畏れ多くも王様より医官最高位、医仙の名を頂いた方が。

女に馬鹿にされただと。ではそ奴には何が成せるという。
国の為、民の為にその手で何が成せる。
この方のように国に仕えられるか。傷を癒し苦しむ命を救えるか。
己を犠牲に民を慈しめるか。 国を救う上医と成れるのか。

畏れ多くも王妃媽媽の御命をお救いし、王様の御心をお救いした俺のこの方を馬鹿にしただと。
「ヨ、ンア」
「はい」
「すっごく、怒ってる?顔が怖いんだけど」
「・・・・・・いえ」

あなたを怖がらせるつもりは無い。それでは本末転倒だと、どうにか呼吸を整える。
「いいの、本当にいいから、だから・・・この千字文、教えて」
「判りました」

確かにこの世の則とはかけ離れてはいるが、決して愚かな方ではない。
あの天界の医術を操れるこの方が、芯から愚かである筈が無い。

相手の判らぬ悔しさに歯嚙みし、夕暮れの居間で姿勢を正す。
崔 瑩の名に懸け誰であれ、二度とこの方を貶める事は赦さん。

「お教えします。完璧に」

その低い声にこの方は、困ったように頷いた。

 

 

 

 

秘かに漢字の勉強を始めたウンス。
どこぞの官僚の奥方に、
読み書きができないことをバカにされ
悔しかったから…と言うが。

本当の理由は、万が一の際に
ヨンを護るためだったのだ。

文字が書ければ、薬草や医術の知識を
侍医たちに伝えることもできる。
ヨンが遠征先から送った書簡も、
他の人の手を借りずに読むことができる。

侍医やマンボたちに教師役をとられるのが
悔しいヨンが、仕事の合間に
ウンスに文字を教えることに。

ついでに…と、テマナや近所の子供たちも
学びにやってきて、チェ家はいつしか
寺子屋のようになる。

ウンスに漢字を教えているうちに
ヨンのほうがハングル文字を
覚えちゃいそうですが…(^_^;)

あ、ウダルチ達も時々
教えにきてくださいね!(muuさま)

 

 

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