2016 再開祭 | 釣月耕雲・拾壱

 

 

「全然知らなかったでしょ。これでも考えて頼んでるつもりなのに、あなた私の話、全然聞いてくれないじゃない。
いつも1人で、勝手にどんどん決めちゃって」

ウンスの膨らませた頬に、チェ・ヨンの黒い眸が当たる。
何処まで本気で怒っているのか見定めようとするように。
怒った口調とは裏腹に瞳が三日月に笑むのを見れば尚更、その真意を汲み取るのは難しい。

「・・・はい」
「帰れなかったことは仕方ない。あの時門が閉じたのはあなたのせいじゃないわ。
あなたは私のこと帰そうって、あの時あの偉そうなアジョシ・・・何だっけ?名前忘れたけど。
王様の側近のあの男に刀を抜いてまで、帰そうとしてくれたもの」
「それは」
「なのに知らなかった。ううん、考えなかった。自分のことばっかり考えてた。傷つけられたみたいで頭に来た。
そして、しちゃいけないことをした。人間としても、医者としても。あなたを傷つけた」

心が苦しい。思い出す度に胸が痛い。
チョ・イルシンの運んだ王命が間違っていると、判っていたのに。
誤っていると判っていながら、羽搏こうとする小鳥を掴まえた事。
傷つけると判っていながら、飛ぼうとする蝶を掌に閉じ込めた事。

そして刺された。当然だ。
この話になる度にこの方を傷つける。こうして涙を浮かべさせる。
刺された傷でなく、その涙に胸が痛いから、一日も早く帰したい。

この方が心を痛める理由は無い。こんな男との思い出など要らぬ。
刺されて当然の男を刺した事など、一日でも早く忘れて頂く為に。

死なないで。

あの時に迂達赤兵舎で確かに聞いた震える声と、胸に隠した薬瓶。
それさえあればこれ以上の思い出など、もう不要な気がするから。

だからもう忘れて欲しい。刺した事も、泣いた事も。
初夏の窓越しの光に眼を細め、並んで小瓶の蓋を閉めた事も。
そして出来ればいつの日か総て忘れ、許して欲しい。
あなたを無理に攫ってしまった、泣かせてしまった男の事を。

いつか忘れられる日の為に。

ヨンは陽射しの中、横に立つウンスの紅い髪を盗み見る。

 

*****

 

「初日はカフェだけでいいの。お茶を飲んでもらうだけでいい」

ウンスは並んだ小瓶や大きな四角い石鹸とは別に、大きな瓶に入った水と小さく切った石鹸の袋詰めを指先で示す。

もはや伽藍洞ではなく、店らしくなった小さな空間。
美しい布を敷いた天板に、見た事もない程綺麗に陳列された小瓶と所々に花や小さな飾り物を配した棚。
殺風景な木目だけの長卓の中央に、裾が長く垂れる程に敷いた絹。
その長卓の絹の上にも重石代わりに、大きな平皿に水を張って花を浮かべたものがいくつか配してある。

居合わせるだけで気恥ずかしいほど、女人の気配が満ちた店内。
ウンスの声に不得要領な顔で長卓を囲む全員が顔を見合わせた。
チェ・ヨン、チャン・ビン、ヨニョルとヒョンイ。
無茶を言い出した本人だけが満足気に
「これね、テスターだから。お試し用ね。ローションに興味があるお客さんがいたらこれを肘の内側の、この辺りにつけてあげて。
ソープに興味がある人には、こっちの小さいテスターをあげてね」

そう言ったウンスは、自分の上衣の袖を大胆に捲り上げる。
慌てて止めようと指先を伸ばすヨン、驚いた顔で腰を浮かすチャン・ビン、急いで目を逸らすヨニョル。
女人のヒョンイだけが冷静に穏やかな顔で、ウンスの白く柔らかな二の腕の内側をじっと見ている。

「手作りコスメだし、この時代の人の肌にも合うのか分からない。だから初日はつけるだけ。
つけて明日になっても、かゆみや赤みが出なかった人にだけ売りたいの」
「試し付けですか」

チャン・ビンの声にウンスは腕を剥き出しにしたまま、何事もない顔でにっこり笑った。
試し付けでも試し呑みでも何でも構わん。
先ずは腕を隠せと苛立ちつつ、ヨンはやや強引に指先を伸ばしその袖を引き下ろす。

ウンスはその指先に驚く事もなくヨンを暢気に見つめ返すと
「ほんっとに頭が固いわね、全くもう」
そんな風にぶつぶつと呟いた。
「其方が柔らかすぎます」
「だってあの時みたいに脚ならともかく、腕を出したくらいで」

ああ言えばこう言うその声に、思い出したくもない風景がまた一つ。
頭に血の上りそうなのを抑え、ヨンは深く息を整える。
「ウンス殿」

血相を変えたヨンを宥め話を摩り替えるよう、チャン・ビンがウンスに呼び掛ける。
「直に市が開きます。人の増える前に、品の準備を」
「ああ、そうね。最終チェックをしなきゃ。ヨニョルさんはお茶を、チャンイさんはコスメを。
チャン先生はお店の総責任者で、チェ・ヨンさんは・・・」

何だと問う黒い眸に、ウンスは嬉しそうに幾度も頷いた。
「セキュリティ総責任者ってことで。でもお客様には愛想よくね!」

 

*****

 

「いらっしゃいませ!」
店先にずらりと並ぶのは、殆どが女人の顔。
列を成す間も待ち切れぬ様子で、身を乗り出して店内を覗き込む視線。

多過ぎる客の列が今にも暴れ出しはせぬかと、気が気でない。
ヨンは茶屋の隅で薬茶を淹れるウンスの横を守りつつ、時折列へ眸を投げる。

先客が腰を上げ次の客を通す段になり、入り口近くのチャンイが声を掛ける。
「いらっしゃいませ」
「あなたじゃなく、あっちの人が良いの!」
殺気だった女人の客に声を投げつけられたチャンイを助けるように
「奥へどうぞ」

ヨニョルが小走りに駆け出て、その客を店奥へと通す。
流石に客あしらいは慣れたものだと、ヨンは胸を撫で下ろす。

いらっしゃいませ、ありがとうございました。
その言葉を何度聞いたろうか。

「ダメ、足りない」
ウンスが呻くように言って、店の隅の仮拵えの厨から這うようにして店内へ出て来た。

そのまま己に縋りつきそうになる指をさり気なく躱し、ヨンが低く問う。
「何がです」
「人手よ!」

声の大きさに近くの客が振り向くのに慌てて紅い唇を押さえ、ウンスの手がヨンの袖先を引く。
人目のあるところで振り払うわけにもいかず、静かに引かれるまま竈の横まで歩く。
改めて向かい合ったウンスの瞳がヨンの黒い眸を覗き込み、その白い両掌が音高く合わさった。

 

 

 

 

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