2016 再開祭 | 冬薔薇・後篇(終)

 

 

「あ、チェ・ヨンさん」

まるで何事も無かったように呼び掛ける声。
その声に小さく顎を下げ、朝陽の中で部屋を横切り窓際へ寄る。
「宜しいですか」
「うん。急にどうしたの?」

・・・如何したのだろう。
俺にも判らない。顔を見てこれ程安堵するなど。

「・・・昨夕、坤成殿へ行かれたと」
「やだ、地獄耳。もう知ってるの?」
医仙は弄っていた器を窓際に据え直し、蓋をすると此方へ歩み寄る。

「あのね、王妃様に会いに行ったの。お願いがあって」
「はい」
その声の調子からも、落ち着いた瞳からも、心裡が読めん。
怒っているのか。呆れているのか。
笑わぬつもりか。逃げるつもりか。
隙あらば脛を蹴り上げるつもりか。

蹴り上げて気が済むなら、幾らでも蹴れば良い。
しかし意に介さぬように横を擦り抜け、この方は部屋の卓へ腰掛けた。
そして立ち尽くすままの俺に振り向き、不思議そうに首を捻る。
「立ってないで座って?ちょうどあなたと話したかったの」

その許しにようやく足が動く。
卓へと大きく歩み寄り、無言で向かいの椅子を引き腰掛ける。
俺の着座を待っていたかのように、この方は姿勢を正してこの眸を真直ぐに見た。
「正直に教えてくれる?」
「はい」
「私、しばらくはここにいる事になる?」
「・・・・・・」
「あなた、しばらくは天門には行けない?」

率直な問いに声が詰まる。出来るなら言いたい。直ぐに送り帰すと。
しかし奇轍がこれ程危険な動きをする今、王様を置き出奔は出来ん。
行きたい。このまま北の天門へ送りたい。
しかし言えば叶えられぬと知る誓いを、再びの嘘を重ねる事になる。

「・・・はい」

瞳を真直ぐに見つめ返して頭を下げる。それは応の返答と共に、せめてもの詫びの印。
怒鳴り声が飛ぶか。裏切り者と罵られるか。何れにしても唯では済まんと覚悟した時。

窓からの射し込む朝陽の中。目の前でこの方は頷き
「やっぱり、そうなのね」
何かを吹切ったように、はっきりとした声で言った。

「じゃあやっぱり良かった、昨日のうちに王妃様に会っておいて」
「・・・は」
「確認したの。典医寺の薬草を、少し勝手に使っても良いかって」
「薬草、ですか」
「うん。だってここの薬草って王様と王妃様、あとは皇宮の職員用に用意してるんでしょ?勝手に使ったら税金の無駄遣いじゃない」
「・・・はい」

話の筋が全く読めん。この方だけだ、これ程惑わせるのは。
これほど注意深く見つめていても、その肚裡が読めぬのは。

「ただムダにダラダラしてるのは嫌だから、化粧品を作るわ。日用品もいろいろ必要なものがあるし。
石鹸に歯磨き粉、ランドリー用の洗剤。ああ、本当は上質のトイレットペーパーが作りたいけど、紙は貴重品よね」

おっしゃる事の半分も判らぬまま、堰を切ったように溢れる声にただ耳を傾ける俺に
「うーん。分かってもらえない?仕方ないけど」
そう言って正面から俺の顔を見つめ、そして。

この方の顔に、確かに大きな笑みの花が咲いた。

もう笑わぬのですか。あの時尋ねて以来、本当に久々に見る笑顔。
この眸で見ているのに信じられずに、ただ眩しさに眸を奪われて。

「・・・もしもーし?ハロー?チェ・ヨンさん、どうしたの?大丈夫?」

気付けばこの鼻の先、確かめるよう小さな掌が振られていた。
声を掛けられて初めて、その笑顔に見入っていた己に気付く。
慌てて頷き眸を逸らし、大きな音で席を立つ。
「・・・王妃媽媽は、お許し下さいましたか」

立ったまま背を向けて問う俺に、
「うん、お好きなだけどうぞって。ちょっとやる気になって来たわ」
戻って来る、屈託のないその声。
「・・・何より」

そう言って部屋の扉へと寄る俺の背から、明るい声が追って来る。
「ねえ、必要な材料がある時はチェ・ヨンさんが協力してくれる?」

その声に扉へ向かう筈の両足が、びたりと床へ縫い止められる。
「だからなるべく顔を出してね?チャン先生は忙しいし、あなただけが頼りなんだから」

足を止めた部屋内、信じられぬ思いで鎧の肩越しに振り返る。
椅子に腰掛けたまま笑いながら、朝陽の中で小さな両掌が上がる。
「知ってるでしょ?あなたしか頼れないのよ?こんな優秀な天界の医仙の助手なんて、光栄だって思って!」
そうして光より明るい笑みと共に、ひらひら振られる小さな両掌。
「待ってるから、なるべく顔出して。お願いね、チェ・ヨンさん!」

あの時、最後に慶昌君媽媽と過ごした日々のように。
一旦出ようとした俺に御二人で寝台に並び、振られたあの掌。
掛けられた明るく楽し気な声。向けられた眩し過ぎる微笑み。
あの時そうして送られて、俺はどうしただろう。考えて思い出し、そして。

そして俺は不器用な笑みを浮かべて、どうにか頷いた。
「・・・出来る限り」

あの時、束の間の夢を見た。其処に並んで手を振る姿に。
その笑顔、その声、その明るさが続くのではと夢を見た。
何もかも元には戻せない。何より大切な、二つの明るい笑顔。
慶昌君媽媽はいらっしゃらず、俺は赦されぬ血に掌を染めた。

それでも乞うた。守りたいと。
せめて失った媽媽の分まで、この方だけは守りたいと。
二度と笑えぬような目に遭わせ、罵られて当然なのに。

こうして眸にすれば欲が出る。護らせてくれるのかと。
まして俺しか頼れないのだと、そんな声で言われれば。

振り切るように再び背を向け、そしてそのまま扉を出る。

深く頭を下げたままのトクマンの前を抜け、小さな薬園を歩き出す。
あの方を見張れ、決して逃がすな、奴にそう釘を刺すのも忘れて。

薬園の階へと続く庭の片隅。
木枯らしの中で首を上げ凛と咲く冬薔薇。
墨絵の色の庭の片隅、頑なな程鮮やかに。

よく似ている。俺の知る方に。
誇り高く香り、決して項垂れず、冬の庭を鮮やかに彩る。
時には棘で指を刺し、それでも眸を向けずにいられない。

思わず足を止め、咲く薔薇の姿に見入る。

脇に添ったテマンが今朝と同じようにこの顔を覗き込む。
しかし此度は何も問わずに、ただ嬉し気に破顔したのを視界の隅で確かめながら。

 

 

【 2016 再開祭 | 冬薔薇 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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