2016 再開祭 ｜ 春夜喜雨・廿参

「大護軍！」
この男だけは、不機嫌な面を拝んだ事が無い。

大斧を肩に担ぎ片手を上げ離れた処から呼ぶ奴に、己の片手を上げて応える。
男は大きな歩幅で此方へ寄りつつ、俺の後ろの垣越しにあの方の居る庵の方を覗き込む。
「医仙はどうした」

俺は黙って眸を上げて、ようやく明るんで来た東雲を示す。
「この早朝に起き出す酔狂など、俺達くらいのものだ」
「酔狂か！」
奴は噴き出すと庵の前庭の丸太にどかりと腰を下ろし、担いだ大斧の石突を地に着いた。

「俺は寝ずの番だ。これから一寝入りする。大護軍は」
明けの光の中、庭に立つ俺の顔色を確かめると
「そうだな、今日の件で興奮して寝られなかったか。さもなきゃ一晩庵を護ってたか」
そう言って呆れたように首を振る。

「判ってるだろう。村は安全だ。大護軍が此処まで来てそんなに気を張ってる必要はねえよ」
「ああ。それは信じている」
「それでも医仙が一緒だと心配か」
「･･･いや。お前も、此度はチュンソクも居る」

まだ起き出す気配のない垣越しの隣の庵を眸で示せば、奴はその視線を追って頷いた。
「信用できるんだな」
「おう」
「長いのか」
「十三、いや四年か」

俺の声に、奴は驚いたように眼を瞠る。
「そりゃ長いな」
「ああ」
「あんたが信じてるなら言う事は無い。俺も信じるさ」

奴は両手で斧を持ち替え、持った腕を伸ばして空へ大きく伸びをした。
「大護軍が晴れ間を連れて来たみたいだな」
伸びついでに雲の切れた東空を眺め、射し始めた朝陽に目を細める。
「一晩中歩き廻って、くたくただ。帰って寝る」
「ああ」
「大護軍も少し休め。この後には領主も来るぞ」

そう言って丸太から腰を上げ、すれ違いざまにでかい手を俺の肩にぼんと乗せると
「二人の庵を覗き見するような無粋な奴はいねえ。安心して、医仙と好きなだけ朝寝でもするんだな」
「おま･･･！」
下らぬ気遣いに怒鳴ろうとする俺の鼻面を人差し指で指し、奴は大声で笑って庭を出て行く。

「起きたら誰かに声を掛けろ。飯を運ぶ」
そんなからかい声の後で、おめおめと共に朝寝など出来るか。
暁鶏より遅く起きれば、村の奴らに何を言われるか想像に難くない。
奴だけではない。長も、鍛冶も、そしてセイルも。

昨日の諍いの後だ。あの方は一日中駆け続けた疲れで寝入っている。
閉じた睫毛と甘い息に喉元を擽られ、その髪に頬を弄られ、ただチュンソクが隣の庵に居る一念で乗り切った。

此処で迂闊にあの方の横へ戻れば、どうなるか判ったものでは無い。
こんな時の己が信用ならんのは、己が一番知っている。
今も此処から振り返れば、庵の中に眠るあの方が脳裏を過る。
眠る頬に手を伸ばす邪念に捉われそうな頭を強く振る。

それでも振る側から、心の何処かで声がする。

諍いの後だ。あの時に誓った筈だ。喧嘩をしても共に眠ると。
娶った女人だ。俺の妻だ。誰に何を言われる筋合いでもない。

あの聞き分けの無い紅い唇を塞ぐのも。
すぐに振り回す細い腕をきつく縫い止めるのも。
目を離せば駆けて行く我儘な小さな体を抱き竦めるのも。

誰が咎めるでも無い。道に悖るでも無い。倫に背くでも無い。
夫婦合和すは仏道の教え。俺の女人だ。俺だけのものだ。

まるで振り子のようだと、意思の弱さに笑う。
どうにかあの方に触れて許される名分を探している。
此処で名分を探すようでは、何の為に一晩あの方の横で辛抱したか全く判らん。

冷たい水でも被って熱くなった頭を冷やそうと、渓流へ降りる為、俺は庵の裏道へ進んだ。