ああ、あの方は本当に。
「ヨンア!!」
近付く気配、物凄い音を立てて開いた部屋の扉を振り向き、思わず深い息を吐く。
扉の開け方も、典医寺中に響く周囲を憚らぬ大声も。
教えて差し上げねばならぬ礼儀が多過ぎる。
そしてまだそう考える己に哂う。
もうこの方は聞きたくも知りたくも無いかもしれんのに。
「何で?何で起きてるの?体調は?」
叫んで俺の懐に飛び込み、陽射しで明るく色を変えた鳶色の瞳が、懐かしい角度で胸の中からこの眸を見上げる。
昨夜と同じ温かな掌が頬に触れ、額に移り、その指先が頸を確かめ、そしてこの手首を掴まえる。
離したくない。離れられない。
離れては生きて行けないとあの時言った気持ちは何一つ変わっていない。
何故伝えなかったのか。何故想うだけだったのか。
何故その身を護れば心も護った気になったのか。
「あなたがこうしてくれると」
胸の中、懐かしい具合に納まって、俺の手首の脈を読むこの方を静かに見つめて口を開く。
「心も護って頂くようで」
「そうなの?」
「はい」
脈を読んでいたこの方は頷くと、少し厳しい顔で言った。
「うーん。昨日よりは良いけど、もうちょっと」
そう言って手首から指を解かぬまま、俺の手を優しく引く。
「さすがに一晩じゃ無理ね。あなたは楽になってるかもしれないけど、まだ脈はいつもと全然違う。
話は聞くから、ひとまず横になって」
抗う事許すまじというその瞳に頷くと、引かれるまま寝台へ歩く。
昨夜よりずっと楽になっているのは、数段の階を上がる時に判る。
昨夜は此処を上がる事さえ這う這うの体だった。
素直にそのまま寝台に寝転ぶと、小さな手が掛布で包んでくれる。
金の輪の光らぬままの左手を眸で追えば、困ったような瞳が返る。
眸を開けていれば見ずに居られん。
困らせるくらいならと閉じれば、その姿も見えなくなる。
中庸の策で眸は開けたまま、視線だけを誤魔化すように掌で覆う。
あなたはようやく落ち着いたか、寝台の足元に腰を下ろす。
少しでも楽に腰掛けられるよう寝台の端へずれながら、この方の分の隙間を作る。
こうして憶えている。
この方の体の大きさも、どのくらい開ければこの方が其処へ丁度良く収まれるかも。
「・・・護りたい事に、嘘は無い」
「分かってる」
「もし俺が悪い病でも」
「ヨンア!!」
その声を終える前に、あなたの唇から悲鳴のような声が漏れる。
「たとえ話でも、絶対言わないで!聞きたくないし考えたくもない。そうなったら私が必ず治す。
治すからあなたは安心して良い。でもそんな縁起でもないこと言わないで」
「・・・同じです」
俺が眸を隠したままで呟くと、あなたは静かに声を止めた。
「あなたが俺を護りながらそれ程病を怖れるように、俺も怖かった。
あなたが体を守りながら、俺の心を護って下さるように。
あなたの身を護る事が、本当の事を伝えずに怖がらせぬ事が、あの時は最良だと判じた」
「それでも話してほしかった」
足許に腰掛けたあなたは俺の顔を見て、怒ったように呟いた。
「別に極秘任務の中身を洗いざらい話せって言ってるわけじゃないの。
そうじゃなくて、元気だよって一言でいいから返事が欲しかった。
こんなに大変なんだ、疲れてるんだって、弱音を吐いてほしかったの。
一人で全部背負うんじゃなく、半分持ってくれって言って欲しかった」
今頷けば、きっと総てが元に戻る。
此処で嘘を吐く事など容易い事だ。
これからは言う、口先だけでそう言えば、あなたはきっと得心する。
そして俺の腕に戻り、今迄と変わらぬ日々が始まる。
互いの心の中に嘘の誓いだけを残して。
縋るような、頼み込むようなその瞳に眸を当てる。
判っている。判っていながら首を振る。
「言えません」
「ヨンア」
「今迄も、これからも」
あなたは悲しそうに俺から瞳を逸らし、そのまま窓外に視線を移す。
「じゃあ何も変わらないわ。結局同じところで、これからも何度もぶつかる。もうそういうのはイヤなの。
変われないなら戻れない。変わらないのに、戻る意味もない」
「・・・あなたの決める事だ」
突き放すようなこの声に、あなたは驚いたように振り返る。
「半分背負わせるくらいなら、端から背負わない。
俺は全て背負うか、全て投げ出すかしか知らぬ」
袖口へと掌を突込んで其処に隠した軍牌を引っ張り、この方へとそれを示す。
紐に結んだ二つの金の輪に、鳶色の瞳が当たる。
「俺にとってあなたを護るとは、こういう事だ。護る以上必ずこの手で国を、王様を守らねばならん。
誓いの輪を、金剛石を割らずに護るにはこの国の為に戦い続けることが必要だ。どちらかだけ選ぶ事は無理だ」
「だから半分背負わせてって言ってるんじゃない!」
「今でも背負っている」
低い声に、この方は意味が判らぬという顔をする。
「あなたが俺と共に戦へ赴く事。王妃媽媽の治療に当たられる事。
こうして俺の為に走り回る事。これ以上望まないでくれ。
これ以上あなたに荷を背負わせる気は、俺には無い。例えどれ程望まれても」
これが己の出した答だ。そして守れる誓いはこれしか無い。
「俺には、絶対に出来ない」
今こそこの眸を逸らしたい。この掌で塞ぎ、あなたの悲しい視線から逃げ出したい。
今こそ誓いを破りたい。甘ったるい嘘を吐き、偽りの優しさであなたを包んで宥めたい。
それが出来るくらいなら端からそうしていた。
この口が吐いた声の通りだ。俺はそんな方便など知らん。
たとえこの方無しでは生きて行けぬとしても。
全て背負うか、全て投げ捨てるしか。

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