2016 再開祭 | 紫羅欄花・参

 

 

帰宅して眺める、薄暗い居間の卓の上。
初めて気づいたのは、王様のあのお言葉を伺ってから十日程の後だった。

どれ程遅く帰ろうと必ず其処に載っている、慣れぬ手蹟の漢文の走り書き、そして丸薬。

今夜もこうして見つける度に、申し訳無さに胸が詰まる。
訊きたい事も言いたい事も山程あろうに何一つ問わず。
ただ元気かと、体は如何かとだけ尋ねるたどたどしい手蹟の文が。
そしてこうして共に居ながら、文を書かせる己自身が。

いつもその文の終わりには、懐かしい天界の文字が並んでいる。
読める筈も無いと判っているのに敢えて書くあなたの、本当に言いたい事は其処に書かれているのだろう。

만나고 싶다… 사랑 해요

読めもしないのに、幾度も墨蹟を指で辿る。
そしてどうにか己を諌める。

この急場さえ凌げれば、状況が落ち着けば、ゆっくり言葉を交わす日々が戻って来る。

これ程忙しないのは今だけだ。元との摩擦が起きようと起きまいと。
北方警備は王様にとり俺にとり、そして国にとっても最重要な課題だった。

元が攻め込もうと込むまいと、何れにしろ紅巾族の一件がある。
北は鍛えるべきだった。武器防具を備え固めるべき要所だった。
その時期が予想より早まっただけだ。

テマンもチホも、ヒドも言っていた。変わりは無いと。
いつもと変わらず明るく一人で話し続け、目を離せば勝手に店先や市で足を止め、飯屋に誘ったりすると。
そうだ、あの方が明るく笑んでいるならそれで良い。

短い漢文で済んでいるうちに気付けば良かった。
丸い文字が並ぶ文の中から読み取れば良かった。

漢字の読み書きが苦手な方が、どれ程の刻を費やして書いているのか。
それ程までに、俺に何かを伝えたかったのだと。
一言の返信を待ち侘びて筆を取っているのだと。

なのに俺は、ひと捻りの小文すら残さなかった。
墨を磨る暇があれば、一刻も早くあの方を抱き締めたかった。
いや、それすら言い訳なのかもしれん。
一刻も早く眠りたかっただけかもしれん。

己の事しか考えていなかったことは確かだ。
さっさと厄介事を片付け、捕えろと云うなら奇一族を片端から捕え、獄へぶち込んで終いにしたい。

政の事など判らん。あとは王様がお好きにされれば良い。
讞部でも二軍六衛でも動かして、親鞠でも鞠問でもされれば良い。
粛清だというなら、謀叛の確たる証さえ得れば命は無い。
何れ弑すというのなら、ひと思いにそうする事こそが聖恩だろう。

元や奇皇后が絡めば王様は未だに冷静さを欠かれる。
ああして止めても、止まって頂く事は出来なかった。
王様の御言葉に大義がある以上、臣下が従わぬわけにはいかん。

それでどれ程に、あの方を待たせ淋しがらせても。
それが役目だ。あの方を護る代償だ。本末転倒と判っていても。

文と共に置かれていた丸薬を口へ放り込み、噛み砕き飲み下す。
さっさと水を浴び、そしてあの方の処に戻りたい。

卓横の油灯の笠を指先でずらし、その芯先に揺れる焔を消す。
真暗闇に包まれた居間から出で、足早に廊下を湯屋へ向かう。

己の妻に、一つ屋根の元に眠るあの方にこれ程逢いたいなど。
妻でありながら、心から求める女人でありながら逢えぬなど。

それこそおかしいと早く気付くべきだった。
そして逢えぬなら言葉で詫びるべきだった。
俺は淋しいと、あなたを淋しがらせて済まないと、文など書かせて済まないと。
言えないならばあの方のように文でも認めるべきだった。
何を一番大切にするべきか、気が付かねばならなかった。

何故国を、民を、王様を、兵を大切にするのか。
それこそ全てあの方あっての事だったのに。
なのに俺は、大切なその方を後回しにした。

何処かで甘えていた。口下手な俺を判って下さると。
そして怖れてもいた。判れば余計な心配を掛けると。

ただ日々だけが過ぎて行った。

そして季節はすっかり春を過ぎ、空の色も風も変わった。

一番大切な事を、最後の最後まで後回しにしたままで。

 

 

 

 

8 件のコメント

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    側にいると 気付かないことも多々あるでしょう
    後になって もっとちゃんと 言えばよかった
    そうすればよかったと… 思うものよね
    全て 完璧にできたら すごいわよ~
    後回しか~ 
    王様~ ゆっくりさせてあげてください~

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    辛いです…
    ヨンの自責の言の葉に
    胸がつまります(T_T)
    でも、ウンスはそれ以上に悲しかったんでしょうね。
    戦場に出向いていて会えないなら、
    我慢も出来るけど…
    逢える距離、話せる距離に居て
    何も出来ないのは辛すぎます。
    ヨン、早くウンスの心の氷を
    解かしてあげないとね❤

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    少し、辛いです…。
    ヨンも、大切な仕事、役目、を果たしながら帰宅しているのですよね。
    確かに、疲れ果てて…
    ウンスも、それを十分に理解している。
    それでも、同じ家に住んでいるのに、会話もできず、ウンスが心を込めて書いた手紙に返事もせず…、重なると…、心では分かっているつもりでも辛いです。ヨンの身体を考えた丸薬も添えてあるのに…。
    私は、韓国語が読めませんが、サランヘヨ(愛しています)は、分かりました…。
    その前は読めませんが、ヨンの全てを…のような気持ちと、勝手に推測してしまいました。
    今の状況を、現代的に考えると家庭内別居。家庭内離婚…ですよ。
    だから、最初のお話では、ウンスが居なくなっているのですね。
    ちょっと、辛いです…。

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    なんだかとてもせつなくて…
    胸が痛みます
    ウンスが文を一生懸命書いてるんだろうなぁ
    お互いを思いすぎて、すれ違うのでしょうか…
    もう心配で心配でドキドキです!
    さらんさん!ギプスはとれましたか?
    毎日不自由で大変な中、素敵なお話ありがとうございます!
    こちらにおじゃまするのが一番の楽しみです
    お身体に気をつけてくださいね!

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    何も言わなくてもわかってもらえるなんて、あり得ないですよね(>.<)
    なんか、悲しいです(>.<)
    そして、私は韓国語が全然勉強不足で、読めません(>.<)
    ウンスの、書いた言葉の意味が・・・(>.<)
    さらんさん、ごめんなさい^-^;
    きっと、お話の中で教えてくださいますよね。
    よろしくお願いしますm(__)m

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    後悔先に立たず…
    何処かで甘えがあったのね
    嫌…ウンスだから甘えてしまった
    でも 言葉で伝えないと
    伝わらない時もあるわ

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    さらんさん、おはヨンございます◡̈♥︎
    本末転倒…灯台下暗し
    もっと早く気付けば
    あの時ああしていれば
    そう思っていてもその時は分からないんですよね。
    事が起きて重大さ、その大切さに改めて気付く
    分かっていたのに、その時出来たはずの事を後回しにしてすべき事を出来なかった
    後悔の念が痛々しいですねo(*;ェ;o')

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