2016 再開祭 | 紫羅欄花・拾参

 

 

診察部屋へと踏み入っても、其処に追い求めていた姿は見えん。
窓からの光に向かい合うよう、此方へ背を向けた侍医の影だけが部屋の床へと伸びている。

「侍医」

俺の声に驚いたように振り返り、不思議なものを見たように
「今伺おうとしておりました」

そう言って窓際に並べて置いた湯気の立つ薬缶の列から、侍医が此方へとゆったり歩み寄る。
「済まん、昨夜は」

此処はあの方の役目の場だ。旅籠ではない。
詫びるのが礼儀だろうと頭を下げかけるのを指先で制し、侍医は愉し気に咽喉で笑う。
「今、薬湯の材料を計っておりました。
終わればチェ・ヨン殿を寝台へ担ぎ上げようと覚悟していたのですが」
「・・・知ってたのか」
「何がでしょう」
「昨夜俺が居たのを」
「ああ」

ようやく合点が行ったとばかり、奴は静かに頷いた。
「申し訳ないですが、昨夜は気付かず。ご挨拶もせずに失礼しました」
「それは良い」

ならば俺の滞在をどう知ったのだ。訝し気な心の声を見透かすよう
「ウンス殿が心配されて、随分早くに起きたようです。先程までここでチェ・ヨン殿の薬湯の手配を」
「いや、薬湯はもう要らん」

首を振るのもお構いなしに、侍医の指が素早くこの手首を捉える。
手首を返してその指を払おうとするのも構わず、奴は穏やかな声で
「・・・ウンス殿も、随分脈診が上達されたようです。いえ・・・」

そう言ってこの眸に向かい
「チェ・ヨン殿だからなのでしょうね。あの方は、あなたの脈だけは寸分違わず正確に読む」
納得したように笑んで言った。

「余計な事は良い。あの方は」
「さあ。薬湯を決めるなり、出て行かれましたが。チェ・ヨン殿こそ、床で伸びていると伺いましたが」

こいつは絶対にからかっている。
苦い思いに眉を顰め、俺は無言で診察部屋を横切り、表扉から明るい表へ飛び出した。

 

*****

 

「トギ」

薬園の隅の小さな可愛い離れ。
トギはその小さな離れに不釣り合いなくらい立派な台所の、かまどの前に座り込んでいた。

ウンス、どうした。

振り返った目と指が不思議そうに問い掛けるのに頷いて
「あのね、お願いがあるんだけど。あの人が来てるの。昨日倒れて。
ここのところ食べてないから、でも起きてくれるか分からないから。
温めなおしてもおいしく食べられるチゲを作らせて欲しいなあって」

勢いよく伝える私の声を、驚いたみたいなトギの手が止める。

ちょっと待って、落ち着いて。急にいっぺんに言われても判らない。

トギがかまど前から立ちあがると、指でゆっくり聞き直してくれる。

あの人って、大護軍だね。
「うん、そう」
トギは嬉しそうに笑うと、一人でうんうん頷いた。

ここで食べたりしないで、二人で家に帰れば良いだろうに。

冷やかすようなその指の声に、私は思いっきり首を振る。
「まだなの。いろいろ・・・話す事もあるし」

テマンが長いこと心配してた。ウンスがここに来る前からずっと。

トギの指の告白に驚いて、私はもう一度首を振った。
「全然知らなかった。そうだったの?」

当たり前だ。きっとテマンだけじゃない。みんなそうだ。

トギの呆れたみたいな指の声に、反論できずにうつむいてしまう。
そんな私に仕方ないなあって顔で笑って、トギは私の肩を優しく叩く。
顔を上げるとその指が、ゆっくり私に言ってくれた。

ウンスより私の方が、まだ料理は巧い。おいしい汁を作っておくから、食べられる時になったら声をかけて。
料理を作るより、今は大護軍の側にいてあげた方がいい。
「・・・じゃあ、甘えちゃっていい?ほんとにありがとう」

その声に頭を下げると、トギが任せてっていうように胸を叩く。
それに頷いて笑い返すと、私は離れを飛び出した。

よく晴れた空、明るい薬園の緑の葉越しに自分の部屋の窓が見える。
キム先生、あの人をベッドに寝かせてくれたかしら。
早く戻って様子を見たい。あのまま固い床に座り込んでたら血流も悪くなる。

待っててね、薬湯はオーダーしたし、ご飯も確保した。
後はあなたが起きるまで、ずっとそばにいるから。

薬園を駆け出した私の影が、揺れる緑の薬草の中を楽しそうにはねる。

 

*****

 

「大護軍!」
初夏の晴れ間の木下闇、呼ぶ声に足を止める。

「どうした」
「ここにいるって、思わなくて」
テマンが駆け寄りながら、安堵したような息を吐く。

「医仙と一緒、ですか」
その目が周囲を素早く見渡し、あの方の姿がない事に不安げに曇る。
「いないんですか」

その答は俺が知りたい。典医寺の中ですらこれ程すれ違うなど。
「俺、トギに聞いてきます」

無言のままの俺に焦るように、テマンが切り出した。
「・・・頼む」
「見つかったらすぐ、大護軍に知ら」
「いや」
首を振り、テマンの声を途中で止める。

意外だという様子で此方を見つめる目に向かい
「見つけ次第、連れて来てくれ」
恥も外聞もなく頼んだ声に、テマンは嬉し気に大きく笑い
「はい!絶対!」

そう言って薬園の方へ駆け出していく。

その背が小さくなるのを認め、踵を返し典医寺への途を戻る。
典医寺の中で擦れ違うだけでこれ程に不安なら、最初から掴まえておけば良かった。
俺のしている事は、結局全て後手後手だ。

失ってから気付く。すれ違ってから逢いたくて堪らなくなる。
告げられなくなってから、告げたい言葉が山積もる。
詫びられなくなってから、詫びの言葉で胸が詰まる。

それでも遅すぎる事はない、そう信じるしか無い。
昨日の土砂降りの冷たい雨の後、こんな晴れ渡る朝が来るように。

心の臓に繋がる指から外れても、金の輪が切れる事は無い。

割れず欠けずに輝く金剛石が、壊れてしまう事は無い。そう願うしか。

 

*****

 

「う、医仙!!」
典医寺に向かって戻る道の途中、叫んで近付く小さな影。
明るすぎる太陽のせいで、まだ私は顔さえはっきり見えないのに。

でもあの速さ。その声。
「テマナ?」
大きく伸びあがって両手を振ると、あっという間にたどり着いたテマンは息を切らして
「な、何してるんですか、こんなとこで!」
厳しい声でそう言った。

やだ、私今日は弟分にも妹分にもお説教される日なの?
そんなに心配かけてたんだって、ようやく実感しながら頭を下げる。
「えーっとね、あの人が昨日泊まったから、トギに朝ご飯の相談を」
「飯は後です!大護軍が待ってます!」

私の声をさえぎって、テマンがきっぱり言い放った。
「え?」
「会ってないんですか、大護軍と」
「ちょ、ちょっと待ってよテマナ!」

急かすように並んで歩き始めたテマンの横で、私はピタッと足を止める。
テマンは困ったみたいに、足を止めた私の横で渋々止まる。
「医仙、早く」
「そうじゃなくて、テマナいつあの人と会ったの?」
「今ついさっき、この先で。心配してるんです。連れて来いって」
「寝てるんじゃないの?!」

思わず大きな声で聞いた私に、テマンは驚いたみたいに首を振る。
「寝てません。典医寺中で医仙を探してます」
「先に言ってよぉ!!」

そこにテマンを置き去りに、私は典医寺へ駆け出した。

俺、言ったのにな。

あっという間に横に追いついたテマンの一人言みたいな小さな声が、やけにハッキリ聞こえてきた。

 

 

 

 

8 件のコメント

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    うわぁ(〃^ー^〃)
    回りに優しい…暖かい色がついてゆく。(⌒‐⌒)
    笑っていてね…☆⌒(>。≪)
    重なって拡がるよ…(〃^ー^〃)優しい色。

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    紫羅欄花の花言葉…愛の絆……
    までの、「ヨンとウンスの深まり度」は、私の心で量ると、☆は今、4つ半……
    早く、早く、早く……
    「☆5つ!!」…って、言いたいな

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    まだ、これから今までの思っていた事をお互い伝え合う事が残っているでしょうが、心は既に寄り添ってますよね~?
    ヨン頑張ってウンスの身も心も抱き締めてね~(*^o^*)

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    ヨンが寝ている間に
    (しばらく 起きないだろうと思って)
    やれること やってあげたいこと準備して 
    あれやこれや… 
    ウンスが気になるから 
    やっぱり 目が覚めちゃったかしらね
    さすがに ヨンが探し回ってるなんて聞いたら
    動いちゃダメ~! って 慌てちゃうわね
    だって 心配だもの

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    鬼ごっこみたい…
    でもこれで 本当に本当に
    二人顔をつきあわせ 話ができる
    ヨン!
    ちゃんとウンスの話聞くのよ
    そして謝りなさいね

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    戦の事なら誰にも負けない
    高麗の武士チェ・ヨンなのにね(^^;
    女心には疎いヨン。
    後手後手になっても
    仕方ないですね(苦笑)
    朝から、すれ違いの二人。
    さらんさん~
    感動的再会が待ってるんですよね❤

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    さらんさん、こんにちは!
    侍医は医者だし体のこともよく分かる、でも誰よりもヨンの体を知り尽くしてるのはやっぱりウンスなのよね~
    この二人が普段どれだけお互いを想っているかを近くで見てる三人だもの
    トギもテマンみんな心配しますよね!
    早く仲直り出来るといいな~

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