足音を忍ばせ廊下を歩く。
左手に真黒く沈む庭から、梔子の甘く重い香りが漂う。
黒繻子の空には星も月も見えず、伸びた庭の木々の上を覆っている。
庭木の奥で気配が動く。
足を止めれば其処を行く猫の瞳が金色に此方を見詰め、また庭を横切り始める。
我が物顔の優雅な歩調。
これでは一体何方がこの宅の主か、判ったものではない。
猫より足を忍ばせて、再び廊下を寝屋へと向かう。
もう夜よりも朝に近い刻。 あの方はきっと眠り込んでいる。
この二月近く、起きているあの方と顔を合せる事は稀になっている。
しかし俺の気配で起こすわけにはいかん。
転寝から醒める頃には、今日もあの方の出掛けた後だろう。
ただ流れるような日々に忙殺されている。
これが役目だ、王様の兵だと己に言い聞かせつつ。
気配を殺すのに慣れた足とは裏腹に、頭の中は目まぐるしく動く。
明日の軍議。兵の配置。国境隊との連絡。巴巽村への急使。
元の密偵との繋ぎ。飛ばすべき急書。先ず何よりも兵の鍛錬。
二月も前に聞いた王様の御声が、つい先刻聞いたかのように蘇る。
*****
「大護軍」
春の半ば。
康安殿の窓外に彩を添えていたのは散り際の白木蓮だったか、咲き初めた櫻花だったか。
薄青い霞の空に、花弁を透かした薄白い明るい光が溢れていた。
しかし王様の御口から飛び出したのは、麗らかな陽気とは反対の御言葉だった。
「元への尺牘を考えている」
北の郷領と鴨緑江の八基地を奪還し、高麗での元号暦と官制を廃した。
李 子春と成桂親子の内通で双城総管府を陥落させても、元には目立つ動きすら無い。
其処に敢えてご自身で留めの一撃を加えるという御心の内が読めず、俺は王様を見た。
寝た子は起こさぬに限る。まして眠れる獅子なら尚更だ。
「何の為に」
「奇皇后への絶縁状だな」
「既に縁は切れております」
王様は俺の声に口端を下げると、不服そうに御首を振った
「国内に残る奇氏を誅殺する。今こそ好機だ」
「・・・どういう事です」
「奇皇后がトゴン・テムルに、寡人の廃位の勅令をねだっておるらしい。
未だ父親が健在と知っておったか」
王様の苦い声に、俺は無言で首を振る。
「奇 子敖という男だ。奇轍の手足として動いていた者も、奇轍の怪死後にその許へ遁走したと聞く」
「既に政からは退いておるでしょう」
「奇 子敖自身はな。しかし先方には名分がある。
奇皇后は元皇后として、高麗駙馬王の寡人よりも位が高いと言い出した。
その生父である奇 子敖ならば、未だ利用価値を見出す高官も居ると言う事だ」
「王様」
既に政に関わりすら無い翁を今更引き摺り出すという事かと、思わず声を上げる。
「そなたに頼みたいのは二点だ、チェ・ヨン」
この声に王様は息を吐くと、その玉座から此方を見遣った。
「まずは北方の軍備の増強。元からの兵力にしろ勅使にしろ、必ずや鴨緑江を超えてくる。
決して高麗へ踏み入れさせてはならぬ」
「は」
「次に奇家の粛清。既に国交を断絶し別国となった元と内密に手を結び、高麗王の廃位を目論むのは大逆罪である。大義は此方にある」
「は」
「奇家一族の居場所の洗い出し。元々は貧寒貴族だ。奇轍亡き現在その財力も底を尽いておる。大きな反撃を企てられるとは思えぬ」
「は」
「その捕縛と投獄。但し寡人が親鞠を行った上で断罪する。
それまでは無事で、少なくとも生きていてもらわねば、奇皇后に名分を与える事になる。
良いな。親鞠の上で、謀反の証を手に入れねばならぬ」
「は」
血腥い話に、無表情に頷き返す。
縁の切れた奇皇后に更に追い打ちを掛け、完膚なきまで叩きのめす策。
それが新たな遺恨を生まぬ為にも、一族郎党皆殺しという訳だ。
国内の反勢力の台頭と、疫病飢饉の頻発。
屋台骨から揺れている元を更に叩き潰す。
そうおっしゃる王様の御心の奥に、元という国への尽きぬ恨すら感じる。
俺にとって狙いは奇轍だけだった。
あの方を付け狙い、無事に戻すとの誓いを邪魔立てする男を排すと。
奇轍自身に恨があったわけでは無かった。
逆に言えば己の誓いを邪魔立てする者は、誰であろうとも敵だった。
そもそも政には何の興味も無い。王様を守る、それだけが俺の務め。
そしてこうして王命が下れば、何の恨も無かろうと必ず排さねばならん。
既に父親本人に謀叛の意が有ろうと無かろうと。
娘大事に動くだけの父心で有ろうと無かろうと。
相手が刀を抜くならば奇家一族以外の者は全て斬り捨て、目的の奇家の者達は無事生きたまま捕縛する。
またか。そう思いながら漏れる息を殺し、俺は王様の御声に頷いた。

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こんなに 忙しかったら
会話もないし… 寝顔をって言った
見ることもできないわね~
あ~ 歯痒いわね…
頼られるって 辛いわね。
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王命とはいえ 2月もすれ違いの生活
奇家一族捕縛まで あとどれくらい?
起きた顔を見ないと言うことは
言葉も交わせてないということ
愛しさが募り 思いが届かない
辛いわね~
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さらんさん、おはヨンございます!
残る奇一族を一掃するために日々忙殺されてたんですね。
王様の兵、勿論そうなんだけど その事で目の前にある大切なウンスとの時間が減ってるんですね。
心配だわね。