2016 再開祭 | 紫羅欄花・拾陸(終)

 

 

「ちゃんと気持ちさえ伝わってればいいわけじゃないのよ。
心で分かってても、口にして言いたい時があるの。
声で聞きたい時があるのよ。離れてる時、その一言で救われることがあるの。
言葉ってそういう力を持つときがあるのよ、私にとっては」
「口にするだけ薄くなる」
「私にとってはそうじゃない。言葉が少ないのは不安になるだけよ。
愛してるって言葉は、多すぎるなんてない。言い過ぎってことはない」

俺にとって何より大切なあの天界の言の葉は、色墨だった。
今まで見た事もない程、眸にも心にも鮮やかな、そして優しい色の。

幾度も掬い画布へ伸ばせば、その彩が薄まるように感じた。
まるで筆が掠れ、初めの色が乗らなくなるように。
だからこそ一番大切な処に力強く筆を置きたかった。
画竜点睛を欠くような有様に為らぬように。

この方にとっても教えてくれた言の葉は、色墨だった。
但し色を重ねるほどに濃くなり、周囲のどの色にも負けず、筆遣いが浮き立つような。
だからこそ重ねろと言っているのだろう。
その絵の中で、何処より鮮やかで優しい色を描くように。

この方は教えてくれた。心が判る。その一言で全て判ると。
悩みも、惑いも、謝罪も、
それでも変えられぬというこの道の先さえその一言で通じるならば、これ程心強い言葉は他に無い。
どれ程口にしても濃くなるばかりで、決して薄まらぬのならば。

「愛している」
「・・・・・・うん」
四つ目の枕を握った手が勢いを失くし、枕ごとぽとりと寝台へ落ちる。
「本当に」
「うん」

何より大切で、喪えば息も心の臓も止まる。何もしてくれなくて良い。
ただ横にいて、美味そうに飯を喰い、笑っていてくれればそれで良い。
そして夜に眠る時、必ずこの腕の中にいてさえくれれば、それだけで。
あなたさえ居れば総てが必ずうまく行く。俺がうまく行かせてみせる。

「もう忘れない」

あなたを万一にも怯えさせる事は決して言わない。
けれどそんな時が訪れたとしたら、遺す最後の声はきっとこの言葉だ。
その心にそして耳に、此処から久遠に続く想いが伝わり続けるように。

「愛している」

だからもう一度、その指に嵌めて欲しい。
そして教えて欲しい。この金の輪は、互いに心の臓に繋がっていると。
決して割れず、欠けず、曇らぬその石は永遠に其処に納まって輝くと。
次も、その次も、そしてその次も。
切れぬ螺旋の金の輪の中で、その光を頼りにあなたを探し出せると。

窓からの光に透かすよう、指先の細い金の輪を確かめる。
あれ程固く握り締め、この軍牌と共に立ち回り、泥濘の中を這いずった。
それでも確かに、割れも、欠けも、曇りもない。
あなたの教えてくれる事に、何ひとつ偽りのあった例は無い。

「だから、もう一度嵌めて欲しい」

枕を投げつけ、この胸を突き、求めて伸ばすこの指を解いても。
それでもその温かさは、俺が誰より知っている。

凭れていた頭板から離れ、寝台を進み、枕を離した小さな掌の中に指先の細い金の輪を落とす。
落とされた金の輪ごと握り締め、俺の眸を見つめたまま、その頭が小さく横に振られる。

それがあなたの、最後の答か。

眸を閉じて顎を上げ、最後に大きく息を吐く。
悔いは無い。言うべき事も為すべき事もした。

細い金の輪を寝台の上のこの掌へとそっと戻し、そしてあなたは次に、この掌に残る俺の金の輪を指先に抓む。
そして明るく笑むと俺の左手を握り、この指に金の輪を嵌める。清らかに澄んだ声で言いながら。

「私達は御仏のお導きの縁に従い、来世も、その来世も、次の来世も決して離れず、いつも共にいることを誓います。
どんな時も必ずその縁と、そして新郎を守ります。新婦 柳 銀綏」

まるで棍で殴られたように、この息が止まる。 その言葉は。
あの婚儀の日我が家の仏間で、仏前で和尚様に上げて下さった誓い。
ただ名前だけを唱和してくれるとばかり思っていた参式者の俺達全員の度肝を抜いた、あの誓いの言葉。

「ウンスヤ」
「忘れてなんかいないわよ。誓いを破る気なんてない」
そう言って花のように笑む、その笑顔を見たのはどれ程久々だろう。
あなたは俺の手を握り締めたまま持ち上げ、その金の輪に口づけた。

「愛してる、ヨンア。それだけでいいから、毎日伝える機会を下さい」

ねだるような言の葉ではなく、まるでそれは祈りの響き。
その真直ぐな鳶色の瞳から、慌てて滲んだ目を逸らす。
「ん?」
逸らしたままの俺の眸に困り果てたよう、その温かな指が、細い金の輪を包むこの掌にねだるように伸ばされる。

「んーん」
そうしてねだってくれれば良い。いつも自分を見ていろと。
淋しいと、我儘を言ってくれれば良い。
その声すら届かぬ処に追いやってしまった己の罪、護るつもりで遠ざけた己の罰を、光の中でもう一度胸の奥に刻みつける。
忘れてはならん。この方が俺の為なら我儘も声も全て聞く事を。

「・・・甘えて下さい、女々しい程に。俺の胸は、そのためにある」
初めて伝える心の声に、あなたが驚いた様に瞳を見開く。

「俺の眸は、その瞳を見るためにある」
そして小さな掌を握り、その指先へ金の輪を滑らせていく。
俺の為の指。俺の為に王妃媽媽の、民の、兵の命を守る指。

「俺の指は、この指を握るためにある」
そうだ。こうして何度も思い出す。
娶ろうと、身も心も互いのものになろうと、決して忘れる事は無い。
幾度でもこの方が、こうして思い出させてくれる。

「俺の全ては、あなたに捧げるためにある」

光の中で、あなたが笑う。 あの秋の日よりも尚優しく美しく。
鳶色の瞳から、金剛石よりも眩しく光る雫を零して。

髪を飾る簪も、白絹の衣装も纏わぬまま。
それでも俺の妻はこの世の誰より神々しく美しい。
あなたに泣かれる事だけは勘弁だ。困ったこの腕が細い肩に廻る。

寄り掛かるこの方の肩を抱く。俺の腕は、そのためにある。
あなたが安堵の細い息をつく。俺の耳は、その息を聞くためにある。

そうだ。俺の全ては、こうしてあなたに捧げるためにある。

幾度も、幾度でも繰り返す。あの秋の日の、永遠の誓いを。

全ての大切な者たちが集ってくれた、宅の庭での披露の宴も。
こうして懐かしい典医寺で交わす、二人きりの小さな誓いも。
違いはない。どちらが良いでも悪いでも無い。
あなたさえ居れば、他にはもう何も要らない。

そしてあの時とは少しだけ違う。
唯追い求め、熱に浮かされたように欲したのでは無い。
こうして互いにすれ違い、例え枕を投げつけられても、この方だけは幾度でも許してやれる。
一度指を離れ再び嵌めた今、互いの指の金の輪はあの時よりも固くなっている筈だ。

「私共は本日只今より共に歩みを始めるにあたり、本日までお育て頂いた方々への御恩を
決して忘れる事なく、御仏の教えをお導きとし、夫婦相和し励まし合い、決して離れることなく
家庭を営んで参ります。新郎 崔 瑩」

もう一度告げるとは思わなかった。
司式の和尚様さえいらっしゃらないこの部屋で。
それでも眸の前のあなたが聞いてくれれば、それだけで良い。
嬉し気な笑みが見られれば、これからも幾度でも繰り返すだろう。

「相和すのよ?お互いに何でも話すのよ?」
涙を零したままで、この胸に凭れたままで、鳶色の瞳が懐かしそうに俺の眸を覗き込む。
「出来ません」
首を振った俺に、この方が呆れた顔を返す。
「頑固者」
「はい」
「もういい。あきらめる。惚れた弱みだから少しだけ譲歩するわ」
「・・・最後に叔母上に、花束を投げましょうか」

俺の呟きにあなたは噴き出すと、嬉しそうに大きく頷いた。

 

 

【 2016 再開祭 | 紫羅欄花 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です