春花摘 | 桃・10(終)

 

 

「叔母上」

坤成殿前で声を掛けると、叔母上はさすがに顔を顰める。
「日参するな」
「付き合ってくれ」
理由も告げずにそれだけ頼み、先に立って回廊を歩く。
「何処へ行く気だ」
横へ並んだ叔母上が尋ねる声に一言で応える。
「仁徳殿」

考え過ぎた。
性に合わん根回しも、周囲の目晦ましのような策も。
考えて判らぬなら、判るまで考えん。
後で辻褄合わせに悩む嘘なら端から吐かん。
あの方を護ろうと鼠に捉われるあまり、妄執に憑かれた。
どれだけ手を拡げ策を弄しても妄執の中の奴は昏く巨大で、いつでも俺の先を塞いだ。
あの頃の肚裡が焼ける恐怖と憤怒が、幾度も蘇った。

それ自体があの鼠の思う壷だった。
己の妄執の作り上げたあの男に振り回され、踊らされる俺は見透かされていた。
俺ならどうする。俺らしい進み方とは何だ。
答など一つしかないだろう。これまで忘れていた己に笑う。

正面突破。

「チェ・ヨン殿」
仁徳殿の前に舞い落ちた桃花を掃き清めていた遍照が、地に落ちていた視線を上げて微笑む。
その様子、この男こそまさに仏道に残る四仙、花郎の名に相応しい。

「こちらの方は」
「皇宮の尚宮の長、チェ尚宮だ」
遍照の凍るほど美しい笑みに、横の叔母上は無表情のまま頭を下げる。
その静かな顔。木彫りのハフェタルの方が余程表情豊かだ。

遍照は警戒するでもなく、何の疑いもない様子で叔母上に向かい礼を返す。
「ご挨拶が遅れ、申し訳ありません。遍照と申します」
その瞬間。

頭を下げたままの叔母上の懐から小さな音を立て、鈴のついた飾り紐が滑り落ちる。

叔母上と遍照が同時に屈むと手を伸ばし、飾り紐の端と端へそれぞれの指を掛ける。
指先が紐の上で微かに触れあった瞬間、叔母上は紐から指を離す。
「美しい紐ですね」

指先に紐を勝ち取った遍照が言うと紐についた土を指先で丁寧にはたき、叔母上へと差し出した。
紐を手に受けた叔母上は
「失礼した」
そう言ってゆっくりと地に着いていた膝を上げる。
「いいえ、とんでもない」

首を振り遅れて立った遍照の顔を見る事なく、目線を下げたまま叔母上はただ
「何か不自由は」
とだけ聞いた。
「お気遣いありがとうございます。全て事足りております」
遍照はそう返し、叔母上に惜しみない笑顔で頷く。
「お困りの事があれば、大護軍の部下にお伝えください」
叔母上は短く告げると、無表情のまま踵を返す。

その瞬間に気付く。
遍照に背を向けた瞬間、叔母上の額に汗が滲んでいる事を。
背を向けられた遍照は気付いておらぬだろう
「ありがとうございます」
そう言って返すと、また箒でゆっくりと落ちた花弁を掃き始めた。
「直に親鞠の日取りが決まる」

低いこの声に遍照はさり気なく庭を清めつつ数歩寄り、更に低く笑う。
そして庭を清める箒の音の合間に、唇で囁いた。
「伝えたら機嫌も体調も悪くなりそうです」
「知るか」
「まあ、吐かせるために生かしているのでしょうから」
「それもある」

返答に満足げに頷くと遍照はまた数歩離れ、まるで何事も無かったかのように
「わざわざお運び頂き、ありがとうございました」
箒の手を止め、晴れやかな声でそう言って深く頭を下げた。

 

*****

 

「どう思う」
仁徳殿からの帰路。
遍照と僅かに一言二言交わしただけで叔母上は貝のように押し黙っている。
二度と開くものかというように、薄い口を引き結んだままだ。
幾度問おうと頑として口を開かぬ叔母上に痺れを切らし
「叔母上」

呼び掛けるとそれまで無言で進めていた叔母上の沓音が止む。
「ヨンア」

それでもこの顔を見ようとはしない。
固い横顔の目は真直ぐ皇宮の中心、春の花々に隠れて見えない康安殿の方を向いている。
「あれも内攻遣いなのか」
「そうだ」
「あれほど気の整わぬ奴が」
「ああ」

紐を取り合うあれだけで分かったか。内心舌を巻きつつ頷き返す。
「お前、気付かなかったか」
「・・・何を」

その瞬間の、叔母上の深い息。
俺に何か手落ちがあったか。読み違えたのか。
聞いた事もないような叔母上の溜息に、陽春の光に暖まった背を寒気が走る。
叔母上は額に汗を浮かべたまま、唇を噛んだ。

「そうか、そうだな。お前は知らぬ。深酒と荒淫で乱れ切った姿を一度見たきりだったな」
「一体何の事だ」
謎かけのような短い言葉に、思わず叔母上を振り向く。
「似ている。いや、顔は全く違う。しかし声が」

叔母上は亡霊でも見たような蒼い顔で独り言のように呟く。
「誰に」
「酒で潰れる前、年若かった頃の」
そして正面からようやくこの眸に向き合った。
「・・・忠恵王に」

うららかな春の日。
一重の八重の、白の赤の、あらゆる桃花が風に揺れる。

「嘘だ」
「ヨンア」
「それなら初回のあの謁見の時、王様が何かおっしゃる」
「ヨンア、忠恵王と王様が御幾つ離れていたか知っているか」
「知るか!」
「二十と一、離れていらした」
「だから何なんだ」
「王様がお生まれになった年、忠粛王の伝位で忠恵王が冊封された。
そして二年後、余りの乱政で廃位されている。皇宮からも追われ、宮外に蟄居していた」
「だから」
「しかし忠穆王様も慶昌君媽媽も、その蟄居の間にお生まれになっている」
「皇宮を追われても王妃媽媽や側妃は連れて行ったという事か」
「それどころではない」

叔母上は珍しく嘲笑うように鼻で息を吐いた。
「蟄居先に人妻と言わず奴婢と言わず、美しいと聞けば片端から近隣の女人を引き入れ乱行三昧。
もともと父王忠粛王の后、つまり自分の義理の母を強姦し、無理に愛妾とした男だからな」
「どうでも良い、そんな事は」
「聞け」

鋭く放った叔母上の鞭のような声に、思わず口を噤む。
「その蟄居はおよそ七年。その間は忠粛王が復位された。そして王様は齢八つで禿魯花として元へと赴かれた。
つまり王様は兄上の存在は御存知でも、共にお過ごしになった事はない。
蟄居ゆえ、外部からの出入りは厳しい。王様と忠恵王の御母君は忠恵王の乱行を恥じておられた。
私は幼い王様にお仕えしていたが、御母君の明徳太后媽媽が王様と忠恵王がお会いになるのを許された事は、禿魯花に行かれるまで一度もなかった」
「では、王様は忠恵の顔も声も御存知ないのか」
「そうだ」
「他人の空似ということは」
「考えられる」

有り得ん。
幾年も前に偶然ヒドが知りあった僧が、慶昌君媽媽の異母の兄弟など。
「しかし声が似ている。それは確かだ」
「手裏房が調べている。何か判れば報せが来る」
「ああ、待つとしよう」

そんな事がある訳が無い。それなら担ぎ出されているはずだ。
王様が戻る前。忠恵が死に、そして忠穆王が崩御された時に。
慶昌君媽媽と同じ庶子という立場であれば、媽媽の対抗として担ぎ出されてもおかしくない筈だ。

考えても判らんうちは考えん。手駒が揃えば絵が見える。
盤上の進み方が見えて来る。敵の手の内が透けて来る。
しかし見えてきた絵が己の手の余るほどの大きさなら、その時向かい合う己は一体どう戦えば良い。

負け戦は出来ん。護りたい方がいる。守る奴らを背負っている。
それなのに勝ち目の無い戦に駆り出されればどうする。
尻を捲って逃げるのか。次の勝機を待つのか。
それとも雑魚には目もくれず、ただ大将の首を狙うか。

正面突破で、何処まで戦える。

日毎に明るくなる春の中、桃は櫻に譲ろうと花を散らす。
降り頻る花の雨の中、透ける青空を見上げる。

それでも己らしさを見失うのが一番怖い。
妄執に憑かれて見失えば足許を掬われる。

二本の腕。一本は鬼剣を、もう一本であの方の小さな手を握る。
俺の腕はその為にある。それさえ忘れなければ戦える。

櫻の頃にはもう少し。
その時には今よりも絵が見える事を祈り、叔母上と並んで歩く。

「心配するな」
叔母上が前を向いたまま、不愛想に告げる。
「私も、手裏房も、迂達赤も。お前には分不相応だが王様も媽媽も」

そのまま口を閉じた叔母上の、言いたいことはよく判る。皆がいる。
「だからもっと早く言えば良かったのだ!」

飛ばされた速手を避け、俺は頷いた。護りたい方がいる。そして守るべき者が。
まだ絵は見えずとも、手にした駒は判らずとも、それさえ忘れなければ俺は誰より強くなれる。

「一人で抱え込むからだ。三人寄れば文殊の知恵と古来より言うであろう、馬鹿が」

速手を避けた俺を睨み、桃花の下で叔母上が顔を顰めた。

 

 

【 春花摘 | 桃 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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