「判りました」
「は?」
「子牛の胃袋ですね」
「そりゃ手に入れば作ってみたいけど。ヨーグルトもね。作った事がないから何とも言えない。
あとは水分を押し出す圧縮機。機械の重石がいるの。
どんどんきつく圧縮して水分を完全に出さないと、中から腐っちゃうから」
「牛の乳と山茱萸の枝、子牛の胃袋と塩、重石で、お作りになりたいものが出来るのですね」
「うん・・・多分。まずは試してみなきゃ」
「用意します」
春ならば牛も子を産む季節だ。
丁度良かろうと頷いた俺に、この方がおっしゃる。
「それは嬉しいけど、ヨンア?」
「はい」
「ハードチーズって出来上がるまで、半年くらいかかるみたいよ?」
「・・・半年」
「うん、半年は熟成させないと。最低でも」
「そんなにかかるのですか」
「そうよ、長いと5年くらい熟成・・・熟らすの。待てないなら典医寺の白カビで、カマンベール作ってもいいかも。
それならきっと2週間かそれくらいで出来るわ。典医寺なら青カビもあるから、ブルーチーズも出来るかも。
ロックフォールなんて、フランスの洞窟の中に天然のカビが繁殖してるのよ。そこで作って初めてロックフォールって呼べる。
他は全部にせものなんですって。
でも慣れないうちはフレッシュチーズが一番なのかな。クセもないし。研究するのもいろいろ楽しそう」
飛び出したとんでもない話に、思わずこの方の声を止める。
「黴を喰うのですか」
「うん。発酵食品だから」
「イムジャ」
「あ、大丈夫。大丈夫よ、カビっていっても」
「・・・信じます」
黴を喰う。幾ら貧しい民とて黴を喰ったら腹を壊すと、時には命も危ないと知っている。
煮ても焼いても洗っても味や匂いが変わっていれば、喰う事は無い。
それをわざわざ、黴を喰う。典医寺の黴を使ってまで。
この方のする事に間違いはない。
まして王様や王妃媽媽の御体に関わる事で、おかしな事をする方では絶対にない。
しかし御膳へ出すものに、敢えて黴を使うのだろうか。
「チーズといったらワインだけど、焼酎でもいいのかな。逆よね、焼酎に合うチーズを研究すればいいのかしら。
蒸留酒に発酵食品のマッチングって難しそう・・・ねえヨンア」
突然呼ばれて顔を上げる。
「はい」
「桑が欲しいの。簡単に手に入る?」
「山へ行けば。テマンが場所を知っているでしょう」
「今年は作ってみるわ、桑酒。昔、桑ワインを飲んだ事もあるの。典医寺の桑は薬用だから、もらうわけにもいかないし。
桑も薬木よ。根も葉も使える」
「・・・葉は、蚕の餌でしょう」
「そう!実は蚕のフンも、桑の葉っぱと同じ効果がある。蚕砂って血糖値をコントロールするの。糖尿病の消渇に効くわよ」
膳の話が、えらいところに飛んだ。
医官というのはこうして学ぶのだろうか。黴の後には糞。
それが飯や薬となるとおっしゃるこの方に、思わず低く唸る。
「・・・イムジャ」
「うん?」
ようやく暖かさを増して来た春の夕。
辺りは色に溢れ、夕陽がこの方を薄桃に染め上げる。
この眸に映るのは長く凍った冬の後の春の芽吹き。
感じるのは肌を撫でる風の中の柔らかな春の息吹。
その景色をこの方と静かに愛でたいのは俺だけか。
何が悲しくて美しい春に、黴や蚕の話を聞かねばいかん。
「春です」
「うん、そうね?」
「飯の方が大切ですか」
「そんなことないわよ?あなたに美味しいものを食べて欲しいだけ。医食同源っていうでしょ?それを実践したいのよ」
「・・・王様と王妃媽媽にではないのですか」
「もちろんそれもあるけど、ごめん、私が一番大切なのはあなたなの。
媽媽や王様の御食事は水刺で作ってくれるし、あなたにいいものが王様や媽媽に悪いわけないし。
成功したら水刺のオンニに伝えて、王様や媽媽にもお出ししてもらおうとは思うけど」
反省の色も無く、平然とそんな不敬を口に出す。
この方にはいつまでもこの世の常識は通じず、憶えようともされず、此方の肝が冷える程率直にその肚裡を口にする。
「思っても口には」
「え?」
「王様より俺が大切など」
「どうして?じゃあ、あなたは私より王様が大切?」
「・・・は?」
何故だ。先刻までは飯の話ばかり、機嫌良く話していたのに。
比べようもない方の御名を出し、その瞳に不機嫌な色が浮かぶ。
「私は誰よりもあなたが大切よ。誰に聞かれたってハッキリ言う。
もちろん媽媽も王様も、叔母様や典医寺や迂達赤や、手裏房のみんなも大切だけど。比べられない。なのにあなたは違うの?
こんな風に2人きりでも、正直に言っちゃいけないの?」
「イムジャ」
「私は気にしない。止められても言いたい事を正直に言うわ。嘘ついたって仕方ないでしょ、上手に隠し通す自信もないし。
だったら最初から全部正直に言った方が気が楽じゃない」
忖度の欠片もなく明け透けに言い放ち、夕陽の中のこの方が笑う。
嘘が嫌いで嘘の下手な方。そんな方を選んだのだから仕方ない。
「だから許してよ、せめて2人きりの時だけは」
言ってようやく、喋りの過ぎた紅い唇が止まる。
満開の山茱萸の下から踏み出した小さな足が目の前で止まり、細い腕がこの腰へ回る。
枝を摘まんだままの両手で抱き締められ、胸の低いところの鳶色の瞳が俺を見上げる。
「あなたを愛してる。誰よりも大切。だって私の旦那様だもの。仕事のために家庭を犠牲になんてしない。家庭円満が第一。
ヨーグルトもチーズもワインも、あなたのために作りたい。嘘ついて、王様や媽媽の方が大切ですって言うなんて無理だわ。
あなたが大切だから、あなたの大切な人を守りたい。その上で王様や媽媽を好きだから、出来る限りの事をしたいの。
それじゃダメ?」
「・・・言うなら俺の前でだけ」
ようやく素直に腕の中に収まるこの方に呟くと、小さい笑い声が其処から響く。
「最初っからそう言ってくれたらいいのに」
駝駱、山茱萸、子牛の胃、天界の喰い物、黴、蚕、薬草酒。
この方の頭の中では全て同じ扱いで、その腕を振るうのは俺の為。
王様、王妃媽媽、爺、叔母上、典医寺、迂達赤、手裏房。
この方の心の中にはその貴賤も無く、皆を等しく守るのは俺の為。
このままきつく抱き締めて重石をかけ、半年そのままでいようか。
そうすればこの方も熟れて、少しは口数が減るか。
その後は望むなら、五年でも十年でも。
俺とてそうだ。誰よりあなたが大切で、訊かれればいつでも言う。
嘘など吐く気は毛頭無く、他の物などいつでも捨てられる。
だからと言ってあなたからその全てを懸けて真直ぐに想われる事、捧げられる事、真直ぐ伝えられる事にはまだ慣れていない。
まだ少し時間が要る。俺もそうだとお伝えるするまで。
あなただけが大切で、他は何も要らぬと口にするには。
あなたの声に真直ぐに俺もそうだと答えるまでは、もう少し。
妻として娶ろうと、一生共にと誓おうと、それを堂々と口にするには気恥ずかしさが付き纏う。
どんなに浮かれる春よりも、なお浮かれ騒ぐこの胸裡を打ち明けるなど。
「あなたもそう思ってくれてるって知ってる。正直に言ってみてよ、2人きりの時くらい。ん?」
言い当てられて吐く息に、この方はいつまでも笑い続ける。
【 春草摘 | 山茱萸 ~ Fin ~ 】

皆さまのぽちっとが励みです。
お楽しみ頂けたときは、押して頂けたら嬉しいです。
にほんブログ村
今日もクリックありがとうございます。
コメントを残す