【 福寿草 】
春雷の烈しい雨に根雪も溶け、陽射しで泥濘も乾いた宵。
庭の薬木を揺らす風はすっかり春のもの。
その春の風に揺れながら、花の香を振りまく亜麻色の髪。
毛先に下唇を弄られる俺を気遣うように、小さな手が柔らかく遊ぶ長い髪を項で一つに纏め、肩へと流す。
優しい月明りの下に白い項が顕になれば、次は心が弄られる。
「ねえ」
膝の中から絡めた指を引く甘えた声に眸を落とす。
この方がこんな声を上げる時は必ず肚に一物ある。
「約束、したでしょ」
「は」
この方の欲するままに声を重ねた。薬草も摘む。薬木にも登る。その手の届かぬ処ならこの掌を使えと。
そんな小さな言葉の羅列も、この方に向けた約束には違いない。
「どれを摘みますか」
如何に小さかろうと、確かにするとお伝えした。
月明りがあれば迷う事も無いと、俺は頷き返す。
こうしてゆるりと時を過ごせるのは、役目を終え帰宅してから。
昼は互いに慌ただしく、朝にこの方の眠りを邪魔したくはない。
しかし摘み時の判らぬ薬草を、己で勝手に毟るわけにもいかん。
今宵摘む花はどれだと膝を崩しかけた俺に、この方は首を振る。
「あ、ううん、庭の薬草はもうほとんどタウンさんとコムさんが摘んでおいてくれたわ。タウンさんがうちに来た時言ってたでしょ?
コムさんは山育ちだから、植物に詳しいって。ほんとにそうだった。
私よりも少し長く育てたり、逆にまだかなって待ってたのを摘んでくれたの。今年の薬草は二人のおかげで大収穫よ。あとは作業だけ」
「・・・はい」
嬉し気に弾む膝からの声に目許が緩む。
こうしてこの方の春草摘みにも手を貸してくれるならば、本当に良い内向きと縁が出来た。
しかしそれならこの方のおっしゃる約束とは何だ。
すると誓って、まだ叶えておらん言葉は何だった。
「あ、忘れてる」
どうにか思い出そうと頭を巡らせる俺を見上げ、膝の中からこの方が揶揄うように言った。
「そうよね、正確にはあなたが言った事じゃないから、忘れてるのかも」
俺の言った事ではない、約束。
尚更に頭が縺れ、膝から上がる瞳を見つめ返す。
「おまけに直後にあの騒ぎだもの。忘れてたって無理ないわ」
この方の言葉はまるで、彼方此方に点々と置かれる目印だ。
その声で囲いを狭めながらも、何処に追い込んでいるのかが判らん。
「俺でなくば誰が」
正面突破でおっしゃれば良い。ああしろ、こうしろと。
じわりじわりと真綿で締められるような物言いに、俺は口火を切った。
「誰がした、何の約束ですか」
「あー、忘れてるのに開き直ってる」
「イムジャ」
開き直っているとは心外だ。俺の発した言葉で無いなら、それは俺の約束では無い。
己の出来る事しか言わん。そして言えば必ず守る。それが約束、誓いというものだろう。
寄せた眉根に、膝から指が伸びる。
この方はふざけた様子で眉間の皺を細い指先で撫で擦り、そのままこの唇の両端を指先で上へ引き上げた。
「すぐ怒るんだから」
「怒った訳では」
「怒ってるじゃない。顔が怖いもの」
「ですから」
「そうよね、私が言った言葉なんてあなたには関係ないものね。だけどここまでヒントをあげてるんだから、考えてくれてもいいでしょ?」
ひんととは何なのかはともかく、関係ない、考えていないと言われた声に、肚裡がざわりと波立つ。
「考えております」
「わかんなきゃ聞けばいいじゃない」
「伺いました」
聞いただろう、誰がした、何の約束かと。
「お答え頂けなかったでしょう」
「ちょっとからかっただけよ。それでどうしてそんなに怒るの?」
約束を楯に人をからかうなど有り得ん。
それでも波立つ肚を鎮め、もう一度ゆっくりと問う。
「・・・あなたのおっしゃった言葉ですね」
この方が言った。私の言った言葉なんてあなたには関係ないものね。
確かめるとこの方は鼻で息をし、収まっていた膝の中から勢い良く立ち上がった。
「もういいわよ」
「イムジャ」
「本気で考えてほしかったわけじゃない。2人で楽しくしたかっただけよ。
一緒に出かけられると思ったから、すごく楽しみだっただけなのに」
考えておらぬと責め、次は考えて欲しかった訳では無いと詰り。
一体俺はどうすれば良いのだと、空になった膝からこの方へと眸を移す。
一緒に出掛けられる。俺が交わした訳では無い約束。その後の騒ぎ。
そこまでの声の珠を繋ぎ、出来上がった数珠に膝を打つ。
「敬姫様ですか」
おっしゃっていた、草摘みに行こうと。そして直後にチュンソクが湯を被った。
「もういいってば!」
「イムジャ」
「ヨンアがそんなに簡単に怒る短気な人だなんて知らなかった!一緒に出掛けられるって、楽しみにしてくれると思ってた!」
「イムジャ」
いきなり何だと言うのか、急に大きな声で。
この方が敬姫様と共だってお出掛けなど、恐ろし過ぎて考えたくもない。
王妃媽媽も無茶な方ではあるが、敬姫様よりは思慮深くておいでだ。
まして退いたとはいえ、未だ王様の姪姫様であられるには違いない。
あの鼠が逃れられぬ謀反の罪で捕らえられた今、敬姫様に何かあれば。
敵にであれ味方にであれ、その御命の価値は計り知れぬ程に高い。
楽しみになど出来る訳が無い。そう計じたからこそあの折お止めした。
何処からも攻められ易い開けた野原に出向くならば、一人でも兵を多く。
そう判じたからこそ、チュンソクに打診されたトクマンの同行も許したというのに。
「愉しむどころではない。お判りですか、敬姫様は」
「もういいわ、いっつも仕事の事ばっかり。どうせ私の事なんて二の次でしょ!」
信じられん。この方の口が、そんな声を告げるなど。
そしてこうして正面から睨まれて気付く。いつもより少しだけ色を失くした唇に。
「具合が悪いのですか」
白い項、色を失った唇。突然のこの怒りよう。
俺のこの方の事は、誰より判っている。こんな方ではない事も。
こんな風に突然言葉の刃を向ける訳が無い。誰より俺を知るこの方が。
おかしいと、頭の中で警笛が鳴る。
眸の前で倒れ込んだ時ほどではない。膝に抱いても熱は無かった。
それでもおかしい。こんな方ではない。
「具合が悪いんじゃないわ、あなたのせいで気分が悪いのよ!」
「・・・俺の所為ですか」
その声の礫に目を見開く。
俺の問いに否とも応とも答えずに、この方はその唇を強く噛む。
そして眸の前で踵を返すと、廊下を寝屋へと向け足音高く一人で歩いて行った。

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