夏暁【拾陸】 | 2015 summer request Finale

 

 

「ソンジン」
秋の空を見上げつつ進めていた足を止め、呼び声に振り返る。
眸の先、官軍の軍服を纏った人の好さげな同僚が立っている。
「パク様が門でお呼びだぞ、行って来い」
「・・・パク、様が」

瞬間惑うて思い出す。この時代パクと言えば一人しか知らん。
パク・ウォンジョン。俺の遠縁と嘯いたあの元観察使だ。
こんな処で気を抜くわけにはいかぬ。呼び出しを知らせる声に顎を下げ、宮中の庭を早足で歩き出す。

「久しぶりだな、ソンジン」
「・・・大監」
「おお、そんな堅苦しい呼び名まで覚えたか」
急ぎ足で進んだ門前。
秋の柔らかい陽の中には元観察使、今は都へと戻り宮中で足許を固めつつあるパク・ウォンジョンが佇んでいた。

「具合はどうだ。入営早々相当な使い手として名を挙げていると噂が聞こえてくるが」
「・・・いえ」
「武科挙の馬騎、歩射、地球で全矢を的中させたのは、そなたのみだったらしいな」
「・・・は」
「剣はともかく、孫子や呉子、司馬法までどこで覚えた。
そなたが苦労せぬよう予め試験官に手を廻しておいたが、融通など全く不要だったと、逆に笑われてしまったわい」
「・・・は」

パク・ウォンジョンは満足げに指先で顎髭を撫でる。
「実に素晴らしい。この調子で精進してくれ。
奉恩寺の衛に空きが出来次第、儂からもそなたを就けるように進言する」
「は」

最後に俺の武官服の肩に手を掛けその掌に力を籠めると笑みを深め、パク・ウォンジョンはその場を離れて行った。

毎日が飛ぶように過ぎて行く。
目まぐるしく去りゆく刻の中、噛み付く為の牙を研ぐ。

武科挙を受けて驚いた。この朝鮮という世の暢気さに。
此処では日々が命の遣り取りではない。
戦から離れ、ただ宮中に君臨する王を守る為に、武官達を置いているのだ。

そして武科挙を受ける者らも、命を懸け戦をする気など毛頭ない。
ただ武官として高位に就きたいだけだ。
朝鮮の者が孫子や呉子を読み解くのは、戦の為ではない。
高位の武官を目指す為の嗜みのようなものだ。
武科挙に合格する為の、唯の学問に過ぎない。
実際に入営したとて、武術を磨くのは見栄え良くする為。
王を守るという名目で、華々しく活躍する為だ。

みな己の事しか頭にない。誰かを守りたいわけでもない。
宮中で生き残りに必要なのは、武技の腕より権謀算術だ。
敵を陥れ己を守る技。命の遣り取りではない。
誰も正面突破などという愚かな真似はしない。

分かっていながら矢を放ち、剣を振り、拳を握る。
その合間に書を繰る。孫子呉子は元より司馬法、尉繚子、李衛公問対に至るまで。

剣だけが牙ではない。何しろ相手は支配者だ。
どんな無体も許されると言うなら、此方も頭を使う。
何れ己の血肉となる。学んでおいて損はない。
相手の先を読みその肚を読み、逃げ道を絶つ為に。
俺の去った後、あいつが生きて行く道を作る為に。

パク・ウォンジョンの背を送り、門前で踵を返す。
官営の訓練場への道すがら、宮中の庭の片隅には黄色い野菊が群れ咲いて、秋の涼風に揺れている。

ウンス。

お前が居ない事に、こうして慣れていくのが怖い。
お前と最後に見た月も、お前と最後に歩いた丘も、あの野に揺れていた黄色い野菊も、思い出せば胸を痛ませるのに。

なのに其処に居たはずのお前の面影が薄れていくのが怖い。まるで水に滲んでいくよう、愛しさと懐かしさだけを残して。
お前のあの瞳が、声が、暖かく優しい指先の感触が薄れていく。緩やかに、時に流されていく。

早くもう一度。

逢わねば、声を聴かねば、指先に触れて確かめねば。こうして薄れ、淡い影になり、最後に消えてしまったら。
もしも次に逢えた時、気が付かないような事があれば。

寂しすぎる。

 

*****

 

「ソヨン」
元観察使パク・ウォンジョンの顔が、内医院の物陰から覗く。
小さな声で呼ばれ、私は医女の列から離れる。

その陰へ寄り、男に向かって頭を下げる。建物の影、秋の陽の遮られた内医院裏は驚くほどに肌寒い。
「元気であったか」
「はい」
「何よりだ。修練はどうだ」
「いろいろと学んでおります」
「そうか、そうか」

元観察使は、私の返答に満足げに頷いた。
「そもそも素養があったからな。修練も苦ではなかろう」
「田舎の医女では、知らなかった事が多すぎます」
「しかしそなた、一度は宮中の医女訓練も受けておろう」
「ごく短い間だけです」

その返答に曖昧に首を傾げつつ、パク・ウォンジョンは此方を値踏みするように眺めた。
「そうであったか。この後いろいろ学んでもらわねばな」
「・・・はい」
そう言って頷くと、男は気を取り直すように口調を改める。
「奴は、元気でやっておるぞ」
「・・・そうでしたか」
奴、と言えば思い当たるのは一人しかいない。
きっと元気なのだろう。そしてきっと頑張っているだろう。

「今は互いに、顔を合わせる訳にはいかぬが」
「分かっております」
「状況が変われば、何れまたな」
「お気遣いは無用です、大監」
私の声に、パク・ウォンジョンは微笑んだ。
「悪いようにはせぬ故」
この男のそんな言葉が信用できるものか。両班なんてみな同じ。
自分の目的を達するためには医女一人どうなろうと、どんな思いを抱えていようと、気になどしない。

よく分かっている。私はただソンジンのあの声を信じる。
連れていかれたあの祠跡、その前で言われた最後の声を。

たとえ宮中でお前と目を合わせずとも、守る。
信じるか、信じぬか。

信じる。あの男は、守ってくれる。
そして信じる。私自身のこの心を。

「・・・修練は、三月だったな」
何も知らないパク・ウォンジョンが私へ向けて尋ねる。
あの声を思い出していた私は顔を上げ、急いで頷いた。
「はい、大監」
「ではあとひと月もないか」
「はい」
「修練が終わればそなたに大切な患者を任せる。故に修練が無事終わる迄、 精一杯励んでくれ」

男の重々しい宣言の声に、首を傾げる。
「大切な患者、でございますか」
「ああ。この世に御二方と居られぬ大切な方だ。そなたにしか任せられぬ。
伝えたであろう、いつか頼みごとをすると」

確かに言われた。そしてソンジンは言った。
利害は一致している。

だからと言って、宮中に入って三月でそんな事になるなんて。
もっと先だと思っていた。何か頼まれるにしても、それがどれだけ気の進まない事でも、引き受けなければならない。
けれど私がある程度力をつけて、少なくとも医女として実力を手にしてからだと、高を括っていたのに。
「今の私に、それ程大切な患者の御命を預かる力など」
「いやいやソヨン、そなたでなくば安心して頼めぬのだ」

パク・ウォンジョンは一歩も譲らず、しかし表向きはあくまで鷹揚に笑みを浮かべたままで首を振る。
この男のこういうところが本当に苦手だ。気に喰わない受け答えをしようものなら即座に豹変するだろう。

でも今はソンジンがいる。私の仕出かした不始末で、ソンジンに累が及ぶような事があったらと思うと。
私は注意深く、目の前のパク・ウォンジョンの顔色を見定める。
「・・・畏まりました、大監」
恐る恐るの返答は、どうやら気に入ったらしい。
目の前の男は頷くと周囲を軽く見渡し
「詳しく決まり次第、また話をしに来よう。励んでくれよ」

そういうと内医院の建物伝いに、裏庭の道を歩み去って行った。
ようやくほっと深く息を吐き、私は他の医女に合流しようと、薄暗い物陰から明るい陽の下へ走り出る。

 

 

 

 

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