遑【壱】 | 2015 summer request・vacation(ドチver)

 

 

【 遑 】

 

 

「ドチヤ」

穏やかな御声で呼ばれ、康安殿の御部屋の中の扉脇より階の下、御前へと進み出ると
「はい、王様」
両掌を揃え階上の御机の前、玉座へ腰を下ろされた王様へ深く首を垂れる。

康安殿の王様の御部屋の窓は大きく開かれ、外では今が盛りとばかり大きな声で蝉が鳴いている。
ああ、困る。蝉の分際で、大切な王様の御声を遮るなど。
王様の微かな御声を聞き逃してしまったら如何すれば良いのだ。

誰よりお優しく穏やかな王様は、時折本当に小さな声でしか本音をお告げになれないのだ。
声を大きく張るせいで傷つく者を減らそうとされるほど、聡く明るく繊細でいらっしゃるのだ。
初めて皇宮で対面したあの九つの頃から。

そうだ、丁度今時分。

今と同じように開けた窓から吹き込む風が、その辮髪の毛先を僅かに揺らしていた。

 

*****

 

「大君媽媽」
「なんだ」
「御目に掛かれ恐悦至極に存じます。大君媽媽の随行の御役を賜りました、アン・ドチと申します」

御部屋の中には恐らく私と大君媽媽しかいなかったのだろう。
いや、居たのだろうか。他の事は全く何も思い出せない。

夏だった。
大君媽媽は涼しげな碧の紗の胡服を召され、ようやく結えるようになった辮髪を背に垂らしておいでだった。

初めて直接お目通りの叶った、小さな私の大切な大君媽媽。
蝉の声に掻き消されるほど小さな御声はお変わりないが、あの時の大君媽媽の御声は御気遣いでなく、お育ちになられた高麗を離れる寂しさと不安に震えていらした。

「ドチ」
「はい、大君媽媽」
「わざわざ選んで、私に従いたというのは本当か」
「勿論でございます」
「元へ行かされるぞ」
「御父王様も兄王様もおいでになりました。高麗の王になられる方が、元のしきたりを覚えるための途でございます」

開いた窓、風のそよぎ、揺れる大君媽媽の辮髪の毛先、蝉の声。
そして目の前におわす、小さな大君媽媽の眼差し。
蝉の声に掻き消されるほど小さな声で、大君媽媽はぽつりとおっしゃった。
「本当にそうなのか」
「・・・は?」

大君媽媽のおっしゃる意味が分からず、不敬にも私はお尋ねした。
「人質のようなものではないのか」
「そうではございません、大君媽媽」

ああ、今にして思えばこの時に、首を刎ねられても当然だった。
畏れ多くも天上人である大君媽媽の御声を否定するなど、不敬の一言で済む話ではない。
だのに大君媽媽はこの愚かな若造の声を遮らず、海よりも大きな御心で黙ってお許しになり、御耳を傾けて下さった。

「歴史が申しております。高麗の王となられる方は代々元へと暫し赴き、その宮で人脈を得、人心を捉えて、御自身の御代の礎とされるのです」

これ程お小さい大君媽媽の頃から、本当に賢くていらした。
私の目を見つめ返し、はっきりと首を振られたのだ。
「けれど、元の皇帝に気に入られなければ」
「大君媽媽」

私は膝を折り、大君媽媽の目の前にしゃがみ込んだ。
「ご安心ください。ドチが御守りいたします。命に代えて、必ず大君媽媽を御守りいたします。聖君として戻って来られるまで」

今にして思えば、なんとおこがましい事を申し上げたのだろう。けれど私は本気だった。
愚かで世間知らずの若造だったが、お伝えした声だけは本当に心から思っての事だった。
大君媽媽は初対面の若造の絵空事のような言葉に、怪訝なお顔で声を顰めてお問い掛けになった。
「ドチ」
「はい、大君媽媽」
「そなた、何故初めて会う私に、そこまで」

やはりなんと英邁な方なのだろう。
なんと聡く、明るい目を持ち、よくお考えになられる方なのだろう。
誇らしげな思いを胸に抱いて、私は大君媽媽に首を振った。
「懼れながら私は大君媽媽がお生まれになってより、今日のこの日を九年間、唯ひたすら夢に見て参りました」
「・・・九年間」
「おっしゃる通りです、大君媽媽」

初めて覗かせた御歳に相応しいその幼気なあどけないお顔も、なんと可愛らしくていらっしゃるのだろう。
私は大君媽媽のお顔に、微笑みながら確りと頷いた。

 

「洪氏様が何もおっしゃらず坤成殿をお出になったのが、今でも口惜しくてなりません」
母が泣きながら父に訴えて居るのを初めて耳にしたのは、私が丁度今の媽媽と同じ年頃だった時だ。

「御優しすぎ、御心が広すぎるのです。だから公主様に」
「良いではないか、今でも御二人は睦まじい。此度お生まれになるのも皇子様に違いない」
父が母を宥めるように言っていた。
「そうですとも。禎様と親子ほど御年の違う御子を授かるのは、きっと天が定めた御子だからこそ。皇子様に違いありません」

母は自身を納得させるように頷いていた。
無論、大君媽媽に比べるまでもなく遥かに愚鈍な私ではあった。
しかし当時母がお仕えしていた忠粛王様のお妃、明徳太后様が元から迎えた濮国長公主に皇宮から追い出された一連の騒ぎ。
騒動はそんな愚鈍な私の耳にも届くほどの醜聞となり、二十年近く経ったその当時、開京中で知らぬ者はいなかった。
それでも心より明徳太后様を大切になさっていた忠粛王様は離れた後も明徳太后様を訪い、やがてご長男の禎様が忠惠王となられたその年に祺様がお生まれになった。

「皇子様がお生まれです」
晴れやかな顔で宅へ戻った母と、侍従として忠粛王様から忠惠王にお仕えしていた父とに呼ばれ、私はその両親の前に膝をついて諭されたのだ。
「父母は忠粛王様と明徳太后様に、生涯返しきれぬご聖恩を享けておる。良いな、ドチ」

厳しい顔でそう言ってじっと見る父に、私は頷いた。
「はい、父上」
「次はお前が今日お生まれになった皇子様を生涯御守りする。父母の享けたご聖恩の僅かでも、お返しするのだぞ」
父の重々しい声に、横に控える母も頷いた。
「祺様にとっては荊の途です。皇宮には未だにあの公主様が居る。身を挺して御守りせねばなりません。
それまで忠心を忘れず、己を磨き、やがてその日が来れば全ての力で祺様に尽くすのですよ」
「はい、母上」

祺様が、大君媽媽がお生まれになった日に私の運命は定められたのだ。
私よりも九つお若い大君媽媽、王祺様の為に、身を尽くし生きる事を。

母がお仕えする明徳太后様のところへ、お届け物を持参する度。
父がお仕えする皇宮の、康安殿の横を通り過ぎる度。
お小さい祺様の御育ちになる御姿を垣間見る度に、心で誓った。

乳母尚宮様の腕に抱かれる、ほんのお小さい祺様。
やがてよちよちと、皇宮の緑の草の上を歩く祺様。
走れるほど大きくなられた祺様が、うっかりと転ぶ御姿。
明るい声を上げ、侍従たちと目隠し鬼に興じられる笑顔。
御体に似合わぬ大きな画板の前、風景を写生される御手。
大君殿の東屋で、真摯に四書の講義をお受けになる横顔。

忠心を忘れず己を磨き、その日が来れば必ずあの方に尽くすのだ。
今は遠い場所にいる、あの大切な大君媽媽にこの命を捧げるのだ。

今は遠くからしか拝見する事の許されない、大切な祺様。
祈るような気持ちで、私はその御成長を見守って来た。

そして九年の歳月の後。
国子監での科を修め、科挙を受けて内侍院へ配属を希望した私は元への禿魯花行きが決まっていた祺様、大君媽媽の侍従への名乗りを真っ先に上げた。
何年の間、国元を離れるかも分からない。互いの情勢次第では二度と高麗へ戻れぬ事もある。
まして元の機嫌を損ねればその場で命すら取られ兼ねないと、時を同じくして内侍院へと配属された同僚は皆、祺様への侍従については及び腰だった。

「ドチ、お前も変わっているな」
同期の内官に言われたこともある。
「科挙で一等を取ったと聞いてどんな職を希望するかと思ったら、何故に禿魯花行きの決まっている大君媽媽の侍従なのだ」
「運命だから」

私が笑って言うと、相手は首を捻った。
誰にも分からなくて良いのだ。私が九年間拝見してきた、誰よりも大切な大君媽媽の事は。

 

 

 

 

夏をイメージする単語『vacation』
是非ドチのvacationを(笑) (みゅうさま)

 

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