夏暁【伍】 | 2015 summer request Finale

 

 

珠翡翠が背に命中する鈍い音がして、男の歩がようやく止まる。
さすがに怒っただろうと思ったのに、振り返る表情は変わらない。
怒れば良い。喚けば良い。勝手な女と罵って、手を上げられた方が余程良い。
怒りもせずに黙殺するのが一番残酷だ。
「何だ」
明るい庭で、ソンジンは問い掛ける。
「犬でもあるまいし、石など投げずとも出て行く」
「そうじゃない!」
「煩い」
「あんたが煩くさせてるのよ!」
「他人の所為か」
「そうよ、あんたのせいよ!!」

名前など、言ってほしくなかった。聞きたくも知りたくもなかった。
関係ないと言われるのが落ちなら、最初から関わり合いたくなかった。
最後にこうしてふらりと出て行くつもりなら。
「何なんだ」
ソンジンは呆れたように、離れたところから私を見た。
「どうしろと言う」
「ウンス!」

叫んだ私の声に、初めてその眸に、動揺の色が浮かぶ。
「何であの女の名前を教えたりしたのよ!」
「・・・忘れろ」
「忘れられっこないでしょう!」
「頼む」

苦しそうに呟いた声に、私は首を振る。
「忘れられっこないって言ってるの。忘れられない。絶対忘れない。
私みたいに着飾らなくても、外も中も医術の腕も目が醒める程に美しい、そう言われて忘れられる?あんたなら忘れられる?
外も中も剣の腕もあんたよりずっと優れてる、そう言われた男がもしいたら、あんたなら忘れられるの?」
「済まなかった」
「あんたの探してる女、ウンスってまさか、チャン・ビン先生に関わりのある、チェ・ヨン大将軍に関わりのあるユ・ウンスじゃないわよね?
高麗の医仙、ユ・ウンスじゃないわよね?」

その瞬間、大きく息を吸い込んだソンジンに、私は驚いて目を瞠る。
ソンジンは大きな歩幅で離れた分だけ、再び大きく私へと近寄ると、この両腕をチョゴリ越しに痛いほど握った。
「ソヨン」
「な、何よ」
「今、何と言った」
「え?」

この男は私をこのまま殺す気だろうか。
そう思うほど殺気立った眸で私を真直ぐ睨んだままで、ソンジンが低く唸った。

何故、知っている。 この女が、何故ウンスの名を知っている。
漏らしたのは一声だけだ。ウンス。姓までは、絶対に告げてはいない。

ユ・ウンス。 この世で一番大切な、お前のその名。

この女は今、何と言った。高麗の、ユ・ウンス。
今此処は朝鮮という国だと、あの酒屋の女主人は言っていた。
高麗よりも恐らく後の時代だろう。あの天門の樹が、俺がくぐった時よりずっと、高く伸びていたのだから。

そしてこの女は、この女は今何と言った。

─── 待ってくれている人がいます。
そして、その人の周りに、大切な人たちが。
その人は、武士です。
人を傷つけて生きていることに、傷ついています。
いつも怪我して、傷だらけです。
私が助けたい。だから。

ウンスが劉先生の薬房で、医術を修めたいと頼み込んだ折。
涙を堪えるウンスの声を劉先生へと伝えながら、この耳で聞いた。

─── その人は、武士です。

そして澄んだ夢で、ウンスのあの唇が呼んだ名。
俺の胸に穿たれた、忘れたくとも忘れられぬ名。

ヨンア。

「何と言った!」
低い唸りに、目の前の女は眸を見開いてもう一度言った。
「チャ、チャン・ビン、先生」
「違う!」
「・・・チェ・ヨン大将軍?」

ヨンア。

─── その人は、武士です。

その人は、武士です。

「・・・・・・チェ・ヨン・・・・・・」

俺が、もしも顔を見たら斬り殺すかもしれぬ男の名。
その男は、チェ・ヨンというのか。
真っ白い庭、真っ白い夏の陽、緑に茂る木々、赤く揺れる仏桑華。
「チェ・ヨン」

どんな戦場でも、どんな敵でも、これ程に憎いと思った事は今まで誓って一度も無かった。
向かって来た者のみを斬り、己が生きる為にのみ殺して来た。
チェ・ヨン、お前は違う。俺は必ずお前を斬る。

あの唇が愛おしそうに囁いたその名を、俺は忘れぬ。
もう二度と聞きたくない。ウンス、お前のあの声を。
ヨンアと大切そうに囁く、あの限りなく優しい声を。
必ず天門をくぐる。そして必ず高麗へ行く。 ウンス、お前のいる高麗へ。
「ソヨン」
「なに」
「その話、何処で知った」
「ど、どの話」
「チェ・ヨン。ユ・ウンス。高麗」
「医書に書いてあったのよ」
「持って来い」
「え?」

俺は目の前のソヨンに低く怒鳴った。
「その医書だ。今すぐ此処へ!」
「あんたねえ、身勝手な事言うのも、いい加減にしなさいよ!」
それはそうだろう。言われて当然だ。
顔を紅潮させ、唇を戦慄かせる女に俺は頷いた。

この女の頼みを蹴って此処を出て行こうとし、ウンスの名で踏み止まった挙句、医書を持って来いと言われれば。
それでも手掛かりは見つかった。

ユ・ウンス。チェ・ヨン。高麗。医書。

どれ程に細く頼りない糸でも、今の俺にはそれしかない。
ウンスに再び逢うために。

「それを読みながらお前を待つ。お前に付き合う」
驚いた目で俺を見詰め続けるソヨンに、俺は告げた。
ウンス、お前にもう一度辿り着けるなら。
「出掛けるぞ」

 

 

 

 

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1 個のコメント

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    さらんさん、今日も更新頂きありがとうございます。
    毎日、ワクワクしながら さらんさんのお話を拝読させて頂いている間に、ふと気付けば夏リク最終タイトルではないですか‼︎
    始まる前は「こんなにたくさん、御負担ではないかしら…」と、少しばかり心配にもなりましたが、そんな愚かな危惧はもろともせずに、どのお話も素晴らしく。
    しかも、リクエスト順にお創り頂くという律儀さに、ため息つくばかりの私です。
    ああ…この「夏暁」が終わったら…と思うと、そわそわして、俄かに寂しくなってきました(u_u)。
    本編も、もちろん楽しみです。
    ですが、秋リク、冬リク、はたまた食べ物縛り、色縛り、あいうえお順…、とにかく、さらんさんの生み出すお話をたくさん、たくさん、読ませて頂きたいなぁ~…と、たくさんのファンの方々が切望していらっしゃることと思います❤︎
    我儘を申し上げ、ごめんなさいσ(^_^;)

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