珠翡翠が背に命中する鈍い音がして、男の歩がようやく止まる。
さすがに怒っただろうと思ったのに、振り返る表情は変わらない。
怒れば良い。喚けば良い。勝手な女と罵って、手を上げられた方が余程良い。
怒りもせずに黙殺するのが一番残酷だ。
「何だ」
明るい庭で、ソンジンは問い掛ける。
「犬でもあるまいし、石など投げずとも出て行く」
「そうじゃない!」
「煩い」
「あんたが煩くさせてるのよ!」
「他人の所為か」
「そうよ、あんたのせいよ!!」
名前など、言ってほしくなかった。聞きたくも知りたくもなかった。
関係ないと言われるのが落ちなら、最初から関わり合いたくなかった。
最後にこうしてふらりと出て行くつもりなら。
「何なんだ」
ソンジンは呆れたように、離れたところから私を見た。
「どうしろと言う」
「ウンス!」
叫んだ私の声に、初めてその眸に、動揺の色が浮かぶ。
「何であの女の名前を教えたりしたのよ!」
「・・・忘れろ」
「忘れられっこないでしょう!」
「頼む」
苦しそうに呟いた声に、私は首を振る。
「忘れられっこないって言ってるの。忘れられない。絶対忘れない。
私みたいに着飾らなくても、外も中も医術の腕も目が醒める程に美しい、そう言われて忘れられる?あんたなら忘れられる?
外も中も剣の腕もあんたよりずっと優れてる、そう言われた男がもしいたら、あんたなら忘れられるの?」
「済まなかった」
「あんたの探してる女、ウンスってまさか、チャン・ビン先生に関わりのある、チェ・ヨン大将軍に関わりのあるユ・ウンスじゃないわよね?
高麗の医仙、ユ・ウンスじゃないわよね?」
その瞬間、大きく息を吸い込んだソンジンに、私は驚いて目を瞠る。
ソンジンは大きな歩幅で離れた分だけ、再び大きく私へと近寄ると、この両腕をチョゴリ越しに痛いほど握った。
「ソヨン」
「な、何よ」
「今、何と言った」
「え?」
この男は私をこのまま殺す気だろうか。
そう思うほど殺気立った眸で私を真直ぐ睨んだままで、ソンジンが低く唸った。
何故、知っている。 この女が、何故ウンスの名を知っている。
漏らしたのは一声だけだ。ウンス。姓までは、絶対に告げてはいない。
ユ・ウンス。 この世で一番大切な、お前のその名。
この女は今、何と言った。高麗の、ユ・ウンス。
今此処は朝鮮という国だと、あの酒屋の女主人は言っていた。
高麗よりも恐らく後の時代だろう。あの天門の樹が、俺がくぐった時よりずっと、高く伸びていたのだから。
そしてこの女は、この女は今何と言った。
─── 待ってくれている人がいます。
そして、その人の周りに、大切な人たちが。
その人は、武士です。
人を傷つけて生きていることに、傷ついています。
いつも怪我して、傷だらけです。
私が助けたい。だから。
ウンスが劉先生の薬房で、医術を修めたいと頼み込んだ折。
涙を堪えるウンスの声を劉先生へと伝えながら、この耳で聞いた。
─── その人は、武士です。
そして澄んだ夢で、ウンスのあの唇が呼んだ名。
俺の胸に穿たれた、忘れたくとも忘れられぬ名。
ヨンア。
「何と言った!」
低い唸りに、目の前の女は眸を見開いてもう一度言った。
「チャ、チャン・ビン、先生」
「違う!」
「・・・チェ・ヨン大将軍?」
ヨンア。
─── その人は、武士です。
その人は、武士です。
「・・・・・・チェ・ヨン・・・・・・」
俺が、もしも顔を見たら斬り殺すかもしれぬ男の名。
その男は、チェ・ヨンというのか。
真っ白い庭、真っ白い夏の陽、緑に茂る木々、赤く揺れる仏桑華。
「チェ・ヨン」
どんな戦場でも、どんな敵でも、これ程に憎いと思った事は今まで誓って一度も無かった。
向かって来た者のみを斬り、己が生きる為にのみ殺して来た。
チェ・ヨン、お前は違う。俺は必ずお前を斬る。
あの唇が愛おしそうに囁いたその名を、俺は忘れぬ。
もう二度と聞きたくない。ウンス、お前のあの声を。
ヨンアと大切そうに囁く、あの限りなく優しい声を。
必ず天門をくぐる。そして必ず高麗へ行く。 ウンス、お前のいる高麗へ。
「ソヨン」
「なに」
「その話、何処で知った」
「ど、どの話」
「チェ・ヨン。ユ・ウンス。高麗」
「医書に書いてあったのよ」
「持って来い」
「え?」
俺は目の前のソヨンに低く怒鳴った。
「その医書だ。今すぐ此処へ!」
「あんたねえ、身勝手な事言うのも、いい加減にしなさいよ!」
それはそうだろう。言われて当然だ。
顔を紅潮させ、唇を戦慄かせる女に俺は頷いた。
この女の頼みを蹴って此処を出て行こうとし、ウンスの名で踏み止まった挙句、医書を持って来いと言われれば。
それでも手掛かりは見つかった。
ユ・ウンス。チェ・ヨン。高麗。医書。
どれ程に細く頼りない糸でも、今の俺にはそれしかない。
ウンスに再び逢うために。
「それを読みながらお前を待つ。お前に付き合う」
驚いた目で俺を見詰め続けるソヨンに、俺は告げた。
ウンス、お前にもう一度辿り着けるなら。
「出掛けるぞ」

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さらんさん、今日も更新頂きありがとうございます。
毎日、ワクワクしながら さらんさんのお話を拝読させて頂いている間に、ふと気付けば夏リク最終タイトルではないですか‼︎
始まる前は「こんなにたくさん、御負担ではないかしら…」と、少しばかり心配にもなりましたが、そんな愚かな危惧はもろともせずに、どのお話も素晴らしく。
しかも、リクエスト順にお創り頂くという律儀さに、ため息つくばかりの私です。
ああ…この「夏暁」が終わったら…と思うと、そわそわして、俄かに寂しくなってきました(u_u)。
本編も、もちろん楽しみです。
ですが、秋リク、冬リク、はたまた食べ物縛り、色縛り、あいうえお順…、とにかく、さらんさんの生み出すお話をたくさん、たくさん、読ませて頂きたいなぁ~…と、たくさんのファンの方々が切望していらっしゃることと思います❤︎
我儘を申し上げ、ごめんなさいσ(^_^;)