星雨【柒】 | 2015 summer request・流星群

 

 

「一気に攻める」
托克托の横、後方に自陣を従えたチェ・ヨンはそう言って、大運河を臨む景色の中、興化の市街を指した。
「塩丁程度しか居らぬぞ。張家の兄弟すらも。首謀者の内二人程が守りを任されているだけの小さな拠点だ」
不満気な托克托の声に、チェ・ヨンは頷く。
「豪丁の壁に旗を立てる程度で良い。元軍が奪還したと判れば」
「・・・承知した」
托克托が自軍の副官を見ると、元の官軍旗を掲げた兵に向け、副官が声を掛ける。
「判ったな。豪丁を落したら軍旗を立てろ。目立つ処に」
「はい」
軍旗を掲げた兵が、副官の声に力強く頷き返す。

話は終いだと言わんばかり、チェ・ヨンは馬上から後方の自陣二千騎へ向かって振り返る。
「高麗軍!」
「は!」
「行くぞ!」

その言葉の直後。
放たれた甲矢のように駆け始めたチェ・ヨンを、乙矢のごとく二千騎の高麗軍が従いて追い駆ける。

 

烏合の衆だとは分かっている。

目の前に塞がる数頼みの男たちのうち武器を握る者だけを選び、チェ・ヨンの抜いた鬼剣が斬っていく。
首、頭、胸、腹。苦しませぬよう、急所を的確に狙う。
抜いた鬼剣は血脂で濡れ光り、鎧を纏わぬ敵の血が飛び散る。
その飛沫に赤く染まった頬を拭い、チェ・ヨンは先陣を駆ける。

敵の首を落とし、返した鬼剣の刃で次の敵の胸を刺し貫き、抜いた勢いで次の敵を袈裟懸けに斬り捨てる。

来るな。

目の前の敵に祈る。

来るな。

立ち塞がる敵を、また一人斬りながら。

来ないでくれ。

次の敵の胴を、横に払って。

二千騎が豪丁の前に着く頃には、生きて地に立つ敵の姿は既に無い。
敵から流れる血で、見慣れない地が見慣れた色に黒々と濡れている。

元軍がこじ開けた門戸を抜け、前から来る矢を振り上げた鬼剣で払い除け、チェ・ヨンは祈る。

立つな。この剣の届く先から逃げろ。
立つな。一つしかない命を無駄にするな。
お前らは武人ではない。命を懸けて敵に向かう必要はない。
命をかけて守るべき義などこの戦にはない。金と慾だけに塗れた陣取り合戦だ。
金に飽かせて物資をばら撒き、お前たちの命を捨て駒に使う逆賊と、その金と物資を掠めようと狙う元軍と。

命が惜しくば己で畑を耕し、苦しくとも生き抜け。
そうすれば無駄死にはせずに済む。
飢饉が終わり疫病が収まれば、生きていける時代が必ず来る。

命を捨てるならばせめて、己を守ろうとする者の為に捨てろ。
捨てようとさせる者を守る為でなく。

何も持たぬ者は、何故これ程までに顧みぬのだろう。
己がどれ程に大切なものを捨てようとしているのか。
それを捨てる事で泣く者はいないのか。悲しむ者はいないのか。
その命は本当に、お前だけのものなのか。
待つ者はいないのか。待たせる者はいないのか。
お前を探しこの後悲しい声でお前を呼び続ける者はいないのか。
失ってからでは決して取り戻せないのに。

俺にはいる。いるから、道を塞ぐならば斬り捨てる。
死ぬわけにはいかない。生きねばならないから斬り捨てる。

眸の前で振り上げられる碌に鍛錬も受けていない槍筋を見越し、それを構える男の胸を狙って。
チェ・ヨンの振り上げた鬼剣が、白い陽射しを映して光った。

 

「圧勝だな」
軍議の席に着いた托克托の満足気な声に、チェ・ヨンは無言のままその顎を下げた。
「元にも既にそなたの名が轟いておる。連戦連勝の高麗の鬼将とな」
喜べとでも言わんばかりの声にも、チェ・ヨンは黙ったままだ。
「では、次は計画通り淮東か」
頷くチェ・ヨンに、托克托は唸る。
「敵の鼻先を何もせず過ぎるのは、どうも気に喰わん」
「ならば元軍は二手に分かれ、高郵と淮東から挟み撃ちに」

次案を出すチェ・ヨンに向け
「それも手だな」
托克托は満足したか、鷹揚にそう言って頷いた。
「先に落ちるとなれば淮東。その後全兵力で高郵を」

此処で暫し足を止め、兵を休ませるのも良い。
軍議の為、作戦を練る為と名分があれば、多少の休息が取れる。
チェ・ヨンは次案への托克托の返答を待ちながら、頭で計じる。
「大都に遣いを出し伺ってみよう。返答を頂くまで此処で待つ」
托克托の声に、チェ・ヨンは黙って立ち上がった。

軍議を終えた天幕を飛び出し、ようやく深く息をする。
生きる為、躍らされた民を斬り捨てた事などお構いなしだ。
武人としては本来あれが在るべき姿かもしれん。

連戦連勝の高麗の鬼。そうだろう。元の者の目にはそう映る。
情け容赦無く反乱軍を斬り捨て、血も涙も無く屍を積み上げ、その血濡れた剣を下げて怒涛の勢いで進軍する。

間違ってはいない。その恐怖心で、向かってくる敵が一人でも少なくなるよう祈るしかない。
それでも行く。立ち塞がる者は斬り捨てる。せめて先陣を切り、苦痛の無いよう一息に仕留めてやるしかない。

血に塗れたこの手で、帰って来るあの方を抱き締める日を夢見て。

 

*****

 

大きな音を立てて、床に薬瓶が落ちる。
ウンスは息を呑み、その砕けた瓶の破片へと指を伸ばす。
「どうした」
ソンジンが低く叫び大きな歩幅でウンスの脇へ寄ると、割れた薬瓶の飛び散る床、ウンスの脇へとしゃがみ込む。
「・・・手が、滑ったわ」
ウンスは低く言って、破片を一つ一つ拾い上げる。
「触るな」
その指先を制するように、ソンジンが破片の上を大きな手で覆う。
「俺が」

ウンスは息を吐いて立ち上がり、割れた破片を包むための紙を探そうと文箱を開ける。

劉先生から離れて、ソンジンと天門を目指して。
こんなに心が揺れてるのは、きっと天門に近づいてるせい。
一緒にいることになったソンジンが、どこかあなたに似てるせい。

いつになったら戻れるんだろう。いつになったら逢えるんだろう。
どうしてこんなに、呼ばれている気がするんだろう。
どこを探してみればいいんだろう。何も判らないけど、それでも何度も、何度でも探しに行くから。

忘れないで。諦めないで。

こうして離れてるこの時に、もしもあなたの心が折れるほど悲しい事があった時には、必ず思い出してほしい。
私がいる。いつだって、必ず私がいる。あなたを想ってる。
たとえ今は少しだけ遠くにいたとしても、忘れたりしないで。

床の破片を拾い、小枝の箒で清め終えて、ソンジンが呟く。
「ウンス」

振り返ったウンスの目を捉え、ソンジンがその視線をゆっくりと庵の外、小さな庭へと動かした。
「今宵は良い星が見られそうだ」

まだ明るい庭の空を見上げるソンジンの声に、ウンスは首を傾げる。

 

 

 

 

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