「一気に攻める」
托克托の横、後方に自陣を従えたチェ・ヨンはそう言って、大運河を臨む景色の中、興化の市街を指した。
「塩丁程度しか居らぬぞ。張家の兄弟すらも。首謀者の内二人程が守りを任されているだけの小さな拠点だ」
不満気な托克托の声に、チェ・ヨンは頷く。
「豪丁の壁に旗を立てる程度で良い。元軍が奪還したと判れば」
「・・・承知した」
托克托が自軍の副官を見ると、元の官軍旗を掲げた兵に向け、副官が声を掛ける。
「判ったな。豪丁を落したら軍旗を立てろ。目立つ処に」
「はい」
軍旗を掲げた兵が、副官の声に力強く頷き返す。
話は終いだと言わんばかり、チェ・ヨンは馬上から後方の自陣二千騎へ向かって振り返る。
「高麗軍!」
「は!」
「行くぞ!」
その言葉の直後。
放たれた甲矢のように駆け始めたチェ・ヨンを、乙矢のごとく二千騎の高麗軍が従いて追い駆ける。
烏合の衆だとは分かっている。
目の前に塞がる数頼みの男たちのうち武器を握る者だけを選び、チェ・ヨンの抜いた鬼剣が斬っていく。
首、頭、胸、腹。苦しませぬよう、急所を的確に狙う。
抜いた鬼剣は血脂で濡れ光り、鎧を纏わぬ敵の血が飛び散る。
その飛沫に赤く染まった頬を拭い、チェ・ヨンは先陣を駆ける。
敵の首を落とし、返した鬼剣の刃で次の敵の胸を刺し貫き、抜いた勢いで次の敵を袈裟懸けに斬り捨てる。
来るな。
目の前の敵に祈る。
来るな。
立ち塞がる敵を、また一人斬りながら。
来ないでくれ。
次の敵の胴を、横に払って。
二千騎が豪丁の前に着く頃には、生きて地に立つ敵の姿は既に無い。
敵から流れる血で、見慣れない地が見慣れた色に黒々と濡れている。
元軍がこじ開けた門戸を抜け、前から来る矢を振り上げた鬼剣で払い除け、チェ・ヨンは祈る。
立つな。この剣の届く先から逃げろ。
立つな。一つしかない命を無駄にするな。
お前らは武人ではない。命を懸けて敵に向かう必要はない。
命をかけて守るべき義などこの戦にはない。金と慾だけに塗れた陣取り合戦だ。
金に飽かせて物資をばら撒き、お前たちの命を捨て駒に使う逆賊と、その金と物資を掠めようと狙う元軍と。
命が惜しくば己で畑を耕し、苦しくとも生き抜け。
そうすれば無駄死にはせずに済む。
飢饉が終わり疫病が収まれば、生きていける時代が必ず来る。
命を捨てるならばせめて、己を守ろうとする者の為に捨てろ。
捨てようとさせる者を守る為でなく。
何も持たぬ者は、何故これ程までに顧みぬのだろう。
己がどれ程に大切なものを捨てようとしているのか。
それを捨てる事で泣く者はいないのか。悲しむ者はいないのか。
その命は本当に、お前だけのものなのか。
待つ者はいないのか。待たせる者はいないのか。
お前を探しこの後悲しい声でお前を呼び続ける者はいないのか。
失ってからでは決して取り戻せないのに。
俺にはいる。いるから、道を塞ぐならば斬り捨てる。
死ぬわけにはいかない。生きねばならないから斬り捨てる。
眸の前で振り上げられる碌に鍛錬も受けていない槍筋を見越し、それを構える男の胸を狙って。
チェ・ヨンの振り上げた鬼剣が、白い陽射しを映して光った。
「圧勝だな」
軍議の席に着いた托克托の満足気な声に、チェ・ヨンは無言のままその顎を下げた。
「元にも既にそなたの名が轟いておる。連戦連勝の高麗の鬼将とな」
喜べとでも言わんばかりの声にも、チェ・ヨンは黙ったままだ。
「では、次は計画通り淮東か」
頷くチェ・ヨンに、托克托は唸る。
「敵の鼻先を何もせず過ぎるのは、どうも気に喰わん」
「ならば元軍は二手に分かれ、高郵と淮東から挟み撃ちに」
次案を出すチェ・ヨンに向け
「それも手だな」
托克托は満足したか、鷹揚にそう言って頷いた。
「先に落ちるとなれば淮東。その後全兵力で高郵を」
此処で暫し足を止め、兵を休ませるのも良い。
軍議の為、作戦を練る為と名分があれば、多少の休息が取れる。
チェ・ヨンは次案への托克托の返答を待ちながら、頭で計じる。
「大都に遣いを出し伺ってみよう。返答を頂くまで此処で待つ」
托克托の声に、チェ・ヨンは黙って立ち上がった。
軍議を終えた天幕を飛び出し、ようやく深く息をする。
生きる為、躍らされた民を斬り捨てた事などお構いなしだ。
武人としては本来あれが在るべき姿かもしれん。
連戦連勝の高麗の鬼。そうだろう。元の者の目にはそう映る。
情け容赦無く反乱軍を斬り捨て、血も涙も無く屍を積み上げ、その血濡れた剣を下げて怒涛の勢いで進軍する。
間違ってはいない。その恐怖心で、向かってくる敵が一人でも少なくなるよう祈るしかない。
それでも行く。立ち塞がる者は斬り捨てる。せめて先陣を切り、苦痛の無いよう一息に仕留めてやるしかない。
血に塗れたこの手で、帰って来るあの方を抱き締める日を夢見て。
*****
大きな音を立てて、床に薬瓶が落ちる。
ウンスは息を呑み、その砕けた瓶の破片へと指を伸ばす。
「どうした」
ソンジンが低く叫び大きな歩幅でウンスの脇へ寄ると、割れた薬瓶の飛び散る床、ウンスの脇へとしゃがみ込む。
「・・・手が、滑ったわ」
ウンスは低く言って、破片を一つ一つ拾い上げる。
「触るな」
その指先を制するように、ソンジンが破片の上を大きな手で覆う。
「俺が」
ウンスは息を吐いて立ち上がり、割れた破片を包むための紙を探そうと文箱を開ける。
劉先生から離れて、ソンジンと天門を目指して。
こんなに心が揺れてるのは、きっと天門に近づいてるせい。
一緒にいることになったソンジンが、どこかあなたに似てるせい。
いつになったら戻れるんだろう。いつになったら逢えるんだろう。
どうしてこんなに、呼ばれている気がするんだろう。
どこを探してみればいいんだろう。何も判らないけど、それでも何度も、何度でも探しに行くから。
忘れないで。諦めないで。
こうして離れてるこの時に、もしもあなたの心が折れるほど悲しい事があった時には、必ず思い出してほしい。
私がいる。いつだって、必ず私がいる。あなたを想ってる。
たとえ今は少しだけ遠くにいたとしても、忘れたりしないで。
床の破片を拾い、小枝の箒で清め終えて、ソンジンが呟く。
「ウンス」
振り返ったウンスの目を捉え、ソンジンがその視線をゆっくりと庵の外、小さな庭へと動かした。
「今宵は良い星が見られそうだ」
まだ明るい庭の空を見上げるソンジンの声に、ウンスは首を傾げる。

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