海路【中篇】 | 2015 summer request・海路

※ 2014Xmas request:藤浪 外伝です。
先に其方を読んでからお読みくださいませ。

 

*****

 

「御着物を一式お借りできませんか、大望さん」
向き合った部屋の中。
座り慣れない背の高い木の椅子に三人で腰掛け、見慣れぬ短い髪の恩綏殿が大望を真直ぐに見つめる。
「そ、それは・・・全く、勿論、全く・・・」

大望はどう答えて良いか判らず、動揺しながら横の己を伺う。
こちらが頷くと慌てて椅子から立ち上がり、自分の荷を纏めて置いている控えの間へと走って行った。
「恩綏殿」
その呼び掛けに恩綏殿の人差し指が、赤い唇の前に立つ。
「黙って聞いて下さい」
「黙れるものか」
「瑩さん」
「その髪は一体」
「切っても構わないって言ったわ」
「確かに言いはしましたが」
「武士に二言はないのでしょ。瑩さんを信じます」
「だからと言って!」

何をお考えなのだ。あれ程豊かだった髪を落とすなど。
「剃髪でもされたのですか」
「はい?」
「仏門に帰依するおつもりですか」
「・・・まさか!」

恩綏殿はその下らぬ問いにけらけらと笑い出した。
「これからこの格好の方が、便利な事がたくさんあるんです」
「便利」
「瑩さん」

笑っていた声を改め背筋を伸ばした恩綏殿が、卓向かいから真直ぐこの眸を見る。
「正使は、瑩さんを学者だとお思いでしょう」
「はい」
「瑩さんに連れて来て頂いた私を、医者だと御存知ですよね」
「ええ」

それは本当の事だ。この方が御殿医だったことは使節団の正使も知っている。
身分を偽っているのはただ一人、己だけだ。
橋本家所縁の天文学者。肩書はそうなっている。
「それなら私、医師らしく勉強しなければ」
「は」
「蘭学の本場まで連れて来て頂いたのです。貴重な文献が山ほどあるはずです。
言葉も、進んだ医学も、技も、きっとたくさん学べるはずです。
それを学ぶのには、女の格好では都合が悪いでしょ」
「恩綏殿!」

呆れた声を上げる己に、恩綏殿は目を逸らさず言った。
「帰るのでしょ。龍馬さんたちと共に、朝を迎えるのでしょ」
「・・・恩綏殿」
「龍馬さんのお手紙の通り、今更開いた港を閉じると言って、異国が聞き入れるのは難しいですよね」
「・・・ええ」
「それならひとつでも多く学んで帰ります。この血肉にして、少しでもあの国が豊かになるように。
瑩さんが迎えたい朝のお手伝いが出来るように」
「恩綏殿」
「瑩さん?」

困ったように、恩綏殿が首を傾げる。
「尊いお名前を、私がお言いつけ通りさん付で呼んでいるのに、何故あなたはいつまでも殿付なの」
この方は本当に、いつでも突飛な事を言い出す。
今は大切な髪を切り、男の成りをする話をしていたのではないのか。
「呼び捨てなど」
「呼んでみてください、恩綏と。呼ばなければ返事はしませんよ」

頑固に言い張る口振りも、その笑んだ目でおふざけだと分かる。
それでも呼ばねば、本当に返答しないのがこの方だ。
「・・・恩綏」

躊躇いながら口の中で、その名前を呼んでみる。
「はい、瑩さん」
「恩綏・・・・・・」
「そのうち慣れますよ、瑩さん」

恩綏と呼ぶたびに、これ程胸がざわめくのは何故なのだろう。
その名はお龍殿の父上から授かった名だと聞いたが、本当に昔から知っている気がするのは。
叫び出しそうなほど、何処かへ駈け出したくなるほど、苦しさに息が止まるほどに懐かしい気持ちになるのは。

「瑩さん、着物の用意が出来ました」
控えの間から掛かる大望の声に、この方が腰を上げる。

 

*****

 

「・・・まるで少年だ」
断髪を結い上げ大望の着物を身につけた恩綏殿を、いや恩綏を眺め、思わずそんな言葉が口を突く。
小さな体、白い肌、丸い瞳は変わらぬままに、窓を背にして部屋の中に立つ恩綏はその声に満足げに頷いた。
「これで良いんです。仏蘭西に着いた時に、男と思われれば」
「無鉄砲としか言いようがない」
「瑩さんに言われたくありません」

窓からの逆光の中、恩綏が笑う。
「瑩さんがいるから来たんです。だから瑩さんも、逃げないで。どんなに帰りたくても、今は負けないで」
「あなたは」

言葉が続かず息を吐くと、その背に負った窓際へと寄る。
寄ってその瞳を覗き込むと鼻が触れ合うほどの近くで、丸い目が驚いたように此方を見つめ返す。
「俺が、居るからですか」
「・・・はい」
「ここに居るからですか」
「はい」

それならば逃げるわけにはいかない。どれほどに今上が、そして龍馬さんたちが心配でも。
成すべきことを成し、そしてこの方を連れて必ず帰る。
帰るべき場所でこの方と共に、もう一度始めるために。
「では、仕方ない」
「え」
「俺も死ぬ気で学びます。必ずあなたと帰ります。あの国に。朝を迎えるために」
「はい!」

光の中で笑うその瞳を、その息を間近で感じながら誓う。
必ず帰る。
たとえ何があろうと、どれ程無謀に思えようと。
成すべきことを成し、この方を連れてあの国へ帰る。
あそこで待つ人たちと共に、必ず朝を迎えるために。

 

*****

 

「瑩さん!」

滞在の館に戻ってきた夕刻。
「戻りました」
そう声を掛け館の洋扉を開くたび、奥から駆けて来る小さな軽い足音。
「お帰りなさい、瑩さん!」
まるでじゃれつく仔犬のように、嬉し気に己の周りで弾む声。
「失礼します。御用があれば、御声を」
それを眺めて微笑む大望が静かに頭を下げて、此方が頷くのを確かめ、控えの部屋へと下がっていく。

「今日は、何をされましたか」
そう言いながら居間へと歩く己の周りで、この方が笑う。
「医学所で講義を受けました。言葉はよく分かりませんでした。
でもほら、これをお借り出来たの」

そう言って居間の卓の上に広げた薄い書物を嬉し気に持ち上げ、その頁を捲って一枚ずつ示す。
「分からないけど、全部ひとまず書き写しています。そうすればお返ししても手元に残るでしょ」
成程、だからその小さな手が墨で汚れているのか。
苦く笑いながら頷くと、次は恩綏が此方へと問う。

「瑩さんは?何をされていましたか」
「使節団の通訳と共に、書店を巡っておりました。店で何冊か興味深い本を見つけたので、買ってきました」
手にしていた風呂敷を開き包んでいた書物を卓の上に置く。
恩綏は嬉し気に瞳を見開いて、それらを手に取り確かめる。
「すごい。こんな風にどんどん刷れれば、どれ程楽でしょうね。欲しい人がいつでも気楽に手に取れるようになれば」
「ええ。西洋は使う文字が少ないので楽なのでしょう」
己の言葉に同意するように、恩綏が書物を見つめながら頷く。
「本当にそう。和語には仮名もありますし、漢字もありますし。でもすべて仮名で良いから、こんな風にいっぺんに刷れれば」

こうして異国の文化に触れるたびに痛感する。
我が祖国が、海の向こうで今も朝を待つあの国が、どれ程に遅れを取っているのか。
門を閉ざした小さな世界の中で、どれ程のものに目を瞑って来たか。
「瑩さん」

恩綏がそう言って、細い腕をこの胴へと回す。
そしてゆっくりとその腕の輪を狭め、この胸へ顔を寄せる。

見た目にはまるで兄と弟か、師と弟子の抱擁に見えるだろう。
けれど己だけは知っている。
こうして抱き締めて下さるこの方は、己にとってこの世で唯一の大切な女人だと。
「大丈夫です。こうして学びましょう、帰る日まで。天文も医学も。
それから、行きたいところがあるんです!」
「何方に」
腕の中、こちらを見上げるその瞳を見つめ返す。

「醸造所。あのね、種痘というのがあるんです。
京では日野先生が、大坂では緒方洪庵という御医師の方が、針を使って天然痘の除痘の接種を行ってるの。
でね、その種痘というのは、天然痘の痘苗を増やして使うんですけど」
頬を赤らめ懸命に話す恩綏を穏やかに見つめる。
「その痘苗というのを増やす方法が、納豆や麹を作る方法を元にしてるんです。
一定の温度の中で、痘苗を増やして行くの。だから醸造所に行けば、何か後の役に立つことが見つかるかも」
「分かりました。行きましょう」

そう言ってその短い髪を撫でながら声を掛ける。
「本当?」
「ええ。お連れします。明日、通訳と正使に頼んでおきます」
「ありがとうございます!」

異国に来ても、あの国に居ても、この方の頭の中は医学の事で一杯なのだな。
己の為と判っていても少し寂しい気がして、回された腕の中、己の腕で小さな体を抱き締め返す。
力を入れれば折れてしまうほど頼りない体が、腕の中で撓る。
「え、瑩さん」

胸に寄せられた唇から、驚いたような小さな声が上がる。
「苦しいです」
「ええ」
「少し緩めて」
「嫌だ」

そう言って抱き締めたままの体を抱え上げ、居間の卓の上へ乗せ、その体の両脇に手を突いて逃がさないように囲う。
こうして囲い込み、驚いたように瞠られた目を覗き込み、そして。

・・・そして、ここまでなのだ。 これ以上はどうしても進めずに。
触れる事も、奪う事も、今の己には出来ない。こうして長い事、一つ館の中にいても。

全く。痩せ我慢などせずに、あの頃尋ねておくのだった。
出逢って数月でお龍殿を娶られた龍馬さんに、電光石火の早業の秘訣を聞いておくべきだった。

この方の先を考える程に己がその足を引きそうな気がして。気を散らしてしまいそうな気がして。
この方の世界を狭めてしまうくらいなら、自由を奪うくらいなら、黙ってただ横で支えてやりたい。

この方の許に毎日こうして帰れるなら、それだけで幸せだ。
何処にもいかずに共に居られるならば、それだけで十分だ。
喪う事だけが、ただ怖い。手の届かぬ場所に行かれるのだけが。
明日の事など何も約束できぬあの国でそれがどれ程難しいか、己がよく判っていなければならぬのに。

共に居るだけで国への忠義も志も、今上への誓いですらも薄れてしまいそうな気がして来る。
この方が一番で、この方を守る為だけに生きていきたくなる。

こんなはずではなかったのに。
今上の為にこの命を捧げ、国の為に喜んで死ぬのが、己の役目であったはずなのに。

 

 

 

 

皆さまのぽちっとが励みです。
お楽しみ頂けたときは、押して頂けたら嬉しいです。

にほんブログ村 小説ブログ 韓ドラ二次小説へ
にほんブログ村
今日もクリックありがとうございます。

にほんブログ村 小説ブログ 韓ドラ二次小説へ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です