「何、それどころじゃないって」
「私も確かではないですが」
私の言葉に、医官様が黙って口を結んだ。
「・・・・・・何で?私のせい?」
「いえ、そうではありません。ただ、隊長はここに長居する気はないのかも知れない」
「何故」
「詳しくは」
詳しくはお伝えできない。まだはっきりしない事を。
隊長の為に、そして短い逗留とはいえ此処におられる医官様の為に。
それを良い方に解釈して下さったか、医官様は首を傾げて此方をじっと見た。
「理由は知らないの?先生も?」
「詳しくは」
「詳しくないなら、知ってるだけでも教えてよ」
「あの方は・・・」
私が言うべきことだろうか。
それでも皇宮に戻り、康安殿であの脈を取ろうと、隊長の手首に腕を伸ばした折。
この指先は確かに感じた。尋常ならぬ発熱を、一瞬触れた手首の乱れた脈の端を。
このままでは持つまい。いくら内功に人並み外れて優れた隊長、あの雷功を操る方とて。
野生の虎のように体を丸め、そのまま毒も熱も抑え、何事もなかったように過ごせるとは思えない。
あの扉を打ち壊し、底なし沼を渡り、分厚い氷を割るのは、悔しいがこの私では到底叶わない。
例え天からであろうと、地から来た方であろうと構わない。
今はどうにか最善の手を尽くし、隊長の命を救うのが先決だ。
詳細は言えずともこの方の翻意を当てにするならば、己の感じた症状だけはお伝えせねばならない。
「生きようとする欲を、捨てておられるとしか思えない」
「・・・どういう事なの」
「言った通りです。詳しい事は判りません」
「生きる欲を捨ててるって、死のうとしてるって事?」
瀧殿から、声が消える。
落ちる滝音が、行く夏を惜しむ蝉の声だけが響く。
「黙ってちゃ分かんないわ、先生」
私の沈黙に苛りとされたのか、医官様は声を尖らせ、腰掛けていた段から立ち上がった。
「とにかく私に言えるのはね」
その目が怒っていらっしゃる。
「あの人に死なれちゃ困るのよ。返してもらうって約束したんだから。勝手に死なれちゃ困るの。
あの人しか今ここで頼れる人はいないし、無理に連れてきたのも、返すって約束したのもあの人なんだから。
それを何?生きる気がないから傷をほっとく?生死に関わるのに?
ふざけるのもいい加減にしてほしいわ!」
高くなった声が東屋を抜け、水場の木々の間に響いた。
ああ、これで振り出しか。私の読みは外れたか。
この医官様ならどうにか、隊長の翻意を促してくださると思ったが。
隊長とて無理に天界からお連れした医官様の頼みであれば、例え渋々でも聞き届けてくれると目論んだが。
気が収まるようにと、この方を涼みに水場までお連れしたのも無駄か。
どうにか隊長に会って、典医寺でとは言わぬ、せめて何処かで治療をして頂きたい、そう期待したものを。
静かに息を吐き、怒りに満ちた表情で瀧殿に仁王立ちした医官様を、諦めて見つめる。
チャン御医は、一体何を言っているんだ。
隊長が死のうとしている。そんな馬鹿なことがあるものか。
俺は腹の中で怒鳴りながら、すぐ目の前の東屋で話を続ける二人をじっと見つめる。
隊長に言われた。迂達赤の客人だから、お帰りになるまで守れと。
だからこの真夏の夕方の馬鹿げた山登りだって、黙って従ったのに。
俺の、俺達の隊長のいないところで好き勝手に、死のうとしてるだの生きる欲がないだの。
そんな馬鹿なことがあるもんか。怒鳴りつけたい気持ちを必死で堪え、俺は腰の刀の柄を思い切り握りしめる。
俺の隊長は、俺達の隊長は、俺達に死なない程度に鍛え上げてる。
雨が降ろうと、雪が降ろうと、俺達と共に兵舎の鍛錬場に立って。
俺達が困らないように、戦場で一人でも多く生き延びられるように。
戦場に共に立ち、隊長でなければ無事に済まなかった戦が山ほどある。
あの声に、あの指示に従わなければ、誰も生きて帰れなかったようなそんな戦が、数え切れない程ある。
そんな風に俺達を鍛え上げて。自分は戦場で鬼剣を振って。
死にたい人が、そんな風に・・・
そこまで考えて、俺は息を止める。
俺達が、一人でも多く。
だけど自分はどうなんだ。
隊長自身が生きたいと、生きて帰りたいと、一度でも言った事があるか。
正面突破の、いつでも敵の正面から攻めるあの戦法は、本当に生きたい、生き延びたい兵の考える事だろうか。
違う、と俺は首を振る。違う。そんなことあるものか。
正面突破の戦法は、何か隊長の考えに違いない。
卑怯な事も姑息な手も、人一倍嫌う人だから。
自分で采を振るわずに副隊長に任せる事が多いのは、きっと。
きっとそうだ、面倒臭がりの寝太郎だからだ。
迂達赤に来た初日からぐうぐう寝てただろう。
自分がいなくなるからだなんて、そんなはずがない。
生き延びるために、姑息な手も騙し討ちも使わない。
俺達を逃す途だけ確保して、自分の事を考えている様子はちっともない。
隊長が命を惜しがっていると一度も感じたことがない。
この七年、一緒に戦場に立って来て。
まさかな、まさかだ。チャン御医の当寸法に決まってる。
あの隊長が、俺の、俺達の隊長が、誰より強い、誰より正しい隊長が、死にたいなんて考えているわけがない。
俺達を捨ててここを出て行くなんて、チャン御医の勘違いだ。
きっと聞き間違いに決まってる。
早く兵舎に帰りたい。帰って隊長の顔が見たい。
顔を見て、嘘ですよねって聞こう。そんなのチャン御医の勘違いで聞き間違いですよねって聞きたい。
そうすれば隊長は、俺達の隊長は、思い切り嫌な顔をして俺の頭をひっ叩くか、襟首を掴むか。
機嫌が悪ければ一発蹴りでも入れられて、馬鹿を言うな、そう言ってくれるはずだ。
そして俺はついでに副隊長やチュソクやトルベに小突かれて、お前は何を考えてる、下らぬことを聞くなって怒鳴られて終いだ。
それで昨日と同じ夏の夜が来る。眠って起きて、それで終いだ。
早く帰りたい。何でお二人はいつまでもここでのんびりしてるんだ。
俺の長かった歩哨はもうすぐ終わる。早く帰してくれよ。
「明日、あの隊長のとこに行ってくる」
その声に俺とチャン御医は、同時に医官様をじっと見た。
「死ぬなんて許さない。明日行って来る。今日は遅いから」
医官様の苛々した声は俺でも、もちろん御医でもなく、もうすぐ暮れて暗くなりそうな空に向けて吐き出されていた。
「ああ、もう!何でこんなに夕暮れが早いの、夕方過ぎたらあっという間に真っ暗なんて!
灯って言っても、頼りない蝋燭かランプだけだし。ほんっと不便、この世界!」
医官様は瀧殿の外、暮れていく夏の夕空と、周囲の鬱蒼と茂った木々を見渡して、憎々しげに吐き捨てた。
「・・・時には良いものです。では、暗くなる前に帰りましょうか」
私はそう言って瀧殿を先に立ち、河原を歩き出した。
「え?今日は晩ご飯、ここで食べるんじゃないの?」
そう言い募る医官様に、私は首を振った。
「いえ、虫が寄って参りますよ」
連れ出す為の私の口実を、信じていらしたのか。
「だって、ほら何だっけ、虫除けの香を焚くんじゃないの?」
「ああ」
私は頷いて、追いつき並んで歩き始めた医官様と坂を下り始める。
「虫は除けられますが、蛇は無理ですから」
その声に、横の医官様の足が止まる。
「へび?」
「天界にはおりませんか。長くて鱗と牙があり、毒をもつものも」
「いるわよ!!」
咽喉も裂けんばかりの再びの絶叫に驚いて、私は失礼にならぬ程度に横の医官様の顔を見詰めた。
「蛇がいるの?ここに?この森に?」
「良い水のあるところには、あらゆる生き物が」
「先に言ってよ!!!」
医官様は慌てて叫んで、小走りで坂を下り始める。
「冗談でしょ」
「蛇も蟾蜍も水蛭も、良い薬になります」
「何だか知らないけど。先生は勝手に使えばいい!!私は帰る前に蛇に噛まれるなんて、絶対絶対ごめんだわ!」
「医官様、足下が危ないですからゆっくりと」
「先生はどうぞご自由にゆっくり帰って来てよ、私は絶対いや。
暗くなってから蛇がいるかもなんて思う場所にいるなんて、我慢できない!!」
今にも転びそうなその不安定な足許に、私も思わず歩を早める。
着いて来たあの迂達赤の兵も、慌てて私たちを追い駆ける。
私でもあの兵でも良い。
早く医官様を捕まえて、安全に典医寺までお帰して差し上げねば。
幼子のような、頑固で正直で、己に素直な方。
転ぶ時もきっと手を着く事も知らず、お顔から派手に突込む気がしてならない。
まずは明日。この幼子のような医官様が、どう隊長と接するか。
拝見するしかない。見守ることしかできない。
目の前を今にも転びそうな足取りで駆け下りる医官様の背を、私は追い駆けた。
【 瀧殿 | 2015 summer request・夕涼み ~ Fin ~ 】

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さらんさん、瀧から落ちる水音や夕暮れに響くセミの声が聞えてきました。
そして、眉間に思い切り皺を寄せながら騒ぎ立てるウンスのギャンギャン声と、思慮深く言葉少なに応えるチャン侍医の低い声も。
夕涼みにはもってこいの場所ですが、ウンスの感情はヒートアップしていくのですね。
憎まれ口ばかりの この頃のウンスですが、それでも純粋にヨンを助けたいと思い、誰よりも頼りになる人間だと直感的に受け止めているのでしょうねえ。
さらんさんが生み出したこの場面、実際のドラマに入れ込まれていても至極自然。
いや、むしろDVDだけにでも入れてほしかった~❤
さらんさん、明日からまた新しい一週間ですね。
またまた猛暑が続くようです。
滝殿は近くには無いと思いますが、熱中症にはくれぐれもご留意くださいね。
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“後ろから抱っこしたがる縁側のヨン”を想像していたら、見事に裏切られました(笑)
思いもよらなかったふたりの『夕涼み』をありがとうございました。
マイナスイオンとチャン侍医の言葉を浴びて、明日ウンスがヨンに会いに行くんですね。
トクマンに早く水浴びをさせてあげたいです(笑)