野営地の夜。
天幕の中で寝台に寝転ぶチェ・ヨンは、外から聞こえる音にふと黒い眸を開ける。
全く、風流な呼び出しだな。
肚の内でそう呟き勢い良く身を起こすと寝台から飛び降り、大股で天幕を横切る。
出入口の布を撥ね上げ暗い表へ出ると、惑うことなくその音を追い、チェ・ヨンは星空の下を真直ぐ歩く。
「何か用か」
星闇の中に最後の音を長く震わせ、簫の音が静かに止む。
「別れの挨拶を、しておこうと思ってな」
吹口から顔を上げ、托克托がチェ・ヨンを流し見た。
「・・・どういう事だ」
「そなたの案を宮廷へと申し出た処、早馬が返答を運んで来た。
皇帝が、私を高郵攻めの総指揮官から降ろすと。
高麗軍は此処で大都へ引き返し、そのまま帰国して頂きたいと。
大護軍宛の勅書も、別途発布されるはずだ。一両日中には此処へ到着する」
托克托の急な申出に、さすがのチェ・ヨンも眉を顰める。
「高郵は目の前だ」
「まさにそのとおり。すぐ其処だ」
「ここで何故総指揮官を」
「さあ。何が起きたかは私にも分からぬ。分かっておるのは」
托克托はそう言って苦く笑った。
「戻れば、恐らく辞職が待っている事」
「何故」
「政とはそうしたものだろう。手柄を立てればそれを面白くないと思う者が必ず居る」
「何だそれは」
「我らは勝ち過ぎた。勝って勝って、目立ち過ぎた」
「負け戦をしろという事か」
「そうではない。負ければ死ぬ。死にたくなど無かろう」
「当然だ」
「勝ったのだから誇って良い。勝ったからこそ辞職程度で済む。負けていれば敵に殺されるか、賜死となるかの何方かだ」
諦めたように息を吐いた托克托を見つめたまま
「理解できん」
呟いたチェ・ヨンに頷くと、托克托は簫を革袋へと仕舞いこんだ。
「流浪の間の友だ。これで無聊を慰めねばな」
そう言って革袋を指先で辿ると托克托は闇の中、チェ・ヨンを真直ぐに見詰めた。
「チェ・ヨン」
「何だ」
「そなたには連勝の恩がある。そのお蔭で命は取られず済んだ。最後に一つ、教えてやろう」
「何を」
「そなたも知っておろう。元の断事官、ソン・ユが申した筈だ」
断事官、ソン・ユ。
あの方を殺せと言った、征東行省でのあの一件の男の事か。
チェ・ヨンの無表情だった顔に浮かんだ隠しきれない嫌悪を認め、托克托は低く笑った。
「医仙と名乗る、女人の件だ」
「医仙は既に高麗を去った。元にも情報は届いている筈だ」
「正しく。ただ我が一族には、ソン・ユの与り知らぬ言葉が一つ残されておるのでな」
「・・・どういう事だ」
托克托の突然の言葉に、チェ・ヨンは息を呑む。
「ソン・ユは申したはずだ。高麗で医仙を生かしておいては世が乱れる。故に見つけ次第、その女を殺せと」
「ああ」
「話せば長い」
「話せ」
先を促すチェ・ヨンの声に、托克托は目で笑うと声を継いだ。
「我が一族はキプチャク軍閥の衰退に乗じ、宮廷で勢力を伸ばした。
このキプチャク軍閥を興したのは皇帝モンケの下から代々将軍職の流れを汲む、エル・テムルという将軍だ」
「それで」
「今からおよそ百年も前の話だ。
皇帝モンケが寵愛し、是が非にも手に入れようとした、劉という名の稀代の名医がいたという」
「それで」
「モンケが直々にその名医を大都へ招聘しようと遣いを出した。その遣いの中にエル・テムルの祖父も居たという」
「それで」
「その時の書物に書かれている。モンケはその名医の生涯唯一の弟子の女医を共に招聘しようとしたと。
その女医の技は、今まで誰一人として見た事のない、世にも不思議な技だった。
そしてまるで天から降りて来たような異形の美しさだったと」
「・・・それで!」
チェ・ヨンの頭が割れ鐘のように鳴り出す。
百年前。女医。見た事のない不思議な技。異形の美しさ。
まさか。まさか。
「招聘直前に、その女医が死んだ」
托克托の声にチェ・ヨンの呼吸も、動きも、全てが止まる。
「その死は、モンケの遣いも確認したという」
そんなはずはない。絶対に、そんなはずはない。
俺を置いてあの方が一人で死ぬなど、そんなはずはない。
「・・・嘘だ」
「そう、嘘なのだ」
托克托は愉快そうに、低く囁いた。
「己を束縛し、ひと処へ留め置こうとするモンケを嫌い抜いていた劉という名医は一芝居打ったのだ。
その女医を自由にしようと。我が家には少なくとも、門外不出の逸話として残っている。
モンケに追従するキプチャク軍閥の反対勢力故、この話が残ったのかもしれん。
その女医は必ず高麗へ戻ると。それも不思議な事に百年後の高麗、つまり今の世に必ず戻ると、劉医は残したらしい」
チェ・ヨンは絡んだ糸を手繰り寄せ、どうにか解くようその糸端を頭の中で懸命に探り続ける。
「百年伝わっておる。我が家の言葉だ。高麗の者に恩を受けたなら必ずこの話を伝えよと。
そして待つよう伝えよと。チェ・ヨン」
「・・・何だ」
「そなた、天門という言葉に聞き覚えはあるか」
「・・・・・・ある」
「元にも話はある。あの伝説の名医、華侘が消えたという門か」
「そうだ」
「天門で待てと、劉医は言ったそうだ」
天門で待て。天門で。
顔すら合わせた事のない、その劉という医師の言葉が過る。
知らぬはずの声が、耳の奥の何処かから聞こえる気がする。
送り届けよ。ウンスを天門へ。
天門へ。
チェ・ヨンは星闇の中、烈しく左右に首を振る。
違う。そうではない。送り届けるのではない。此度は待つのだ。
間違って送り届けてしまった。手を離すべきではなかったのに。
あの方を二度と離すべきではなかったのに、過信して。
容易に戻って来られる筈と過信して、この手を離した。
互いの気持ちが通じ合っていれば、すぐに戻って来ると。
「まさか高麗の者に恩を受ける時が来るなど思わず、話だけが伝わっておったのだがな」
チェ・ヨンの心裡など知らない托克托は、淡々と話を続ける。
「しかしこうしてその日が来た。チェ・ヨン」
「何だ」
チェ・ヨンは干上がった咽喉で、どうにか掠れ声を上げる。
「必ず戻って来るそうだ。諦めるなと」
托克托はそう言うと、昏い空を見上げる。
「見よ」
その声にチェ・ヨンが視線を空へ投げ上げる。
頭上の黒い空。敷き詰められた銀の星砂が幾つも、幾つも、白銀の尾を引いて流れる。
「知っておったか。今宵は星雨夜だ。時折ある。こうして星が絶え間なく流れる夜が」
托克托は天を見上げたままで、静かにチェ・ヨンへ告げた。
「凶事の前触れだというが。私は落ちたままでは居らん」
「高麗では、時代の変わる前触れという」
あの方は星雨も好きだろうか。
好きならば、教えてやりたい。
あの方が此処に帰ってきたら、共に見たい。
黒い空に流れる最初の一滴を、共に見たい。
それまで待つ。どれ程長かろうと時間が掛かろうと。
たとえあの丘で石になろうと、諦めたりなどしない。
あなたが戻って来るならば、待つのは怖くない。
怖いのは、帰って来たあなたを一人にする事だ。
あの声で、二度と戻らぬ俺の名を呼ばせる事だ。
それだけは耐えられない。どんな事があろうと必ず生きる。
生きて待ち続ける。そしてもう一度この両腕で抱き締める。
その時には二度と決して離さない。
泣いて逃げ出そうとしようとも、この脚を蹴り飛ばそうとも、胸を叩こうとも腹を刺そうとも絶対に。
チェ・ヨンは己の両の拳が震え、白くなる程に握り締めた。
そんなチェ・ヨンを知ってか知らずか、托克托は穏やかに最後の言葉を結ぶ。
「借りは返した。次に会う時には敵同士、戦場かもしれぬが。呉越同舟、ご苦労であったな。チェ・ヨン」
托克托の声に天を見上げたまま、チェ・ヨンは静かに返した。
「・・・感謝する」
*****
「ウンス」
ソンジンの呼び声に、ウンスは庵の中から庭への窓を振り返る。
「なに」
「来い」
愛想のないソンジンの呼び声に、ウンスは渋々腰を上げる。
私は犬じゃない。そんな風に呼びつけられて本当に腹立たしい。
「何よ」
「見ろ」
ソンジンが顎で示す夜空へ視線を上げて、ウンスは息を呑む。
「・・・すごい」
新月の空、月に邪魔されないその星空は一面墨を流した黒さだ。
そこに輝く星の美しさに、ウンスは顔を上げたままで見入った。
「待っていろ」
ソンジンの声に、ウンスは黙って空を見上げる。
「あ」
その時ウンスの視界の隅、星が流れる。
銀の尾を引いた小さな点が、すうっと上から下へ動いて消える。
「流れ星?」
「し」
ソンジンはウンスの声を遮りその視線を投げ上げたままでいる。
何よ。来いだの、し、だの。ほんと犬扱いね。
けれどすぐに次に流れた星を見つけて、ウンスの目が丸くなる。
黙って見上げている間に、みっつ、よっつ。
「・・・これ」
流星群だろうか。ウンスは空を見つめ続けて思い出す。
ウンスの住んでいた時代にも、時折ニュースになった。
しし座流星群。ペルセウス座流星群。ふたご座流星群。
定常群と周期群、突発群もあったはずだ。晴天、新月期。その観測状況が整えば肉眼でも見える。
まして今は、人工建築物のない時代。余計な人工光源に視界が遮られることもない。
高校時代の授業の記憶をどうにか辿りながら、ウンスは考える。
暗く飲み込まれそうな星空に、追い駆ける事も出来ないほどのたくさんの流れ星が、銀色の尾を引いて消えていく。
ああ、どうしよう。
ウンスは心の底から焦れながら、両の拳を固く握りしめる。
あなたと見たい。この満天の星空の流れ星を一緒に見たい。
あなたもどこかで、見ていてくれるだろうか。
私の事を思って、一緒に見たいって思ってくれているかな。
流れ星が消えるまでに唱えた願い事は、叶うというけれど。
逢いたい。逢いたい。逢いたい。逢いたい。
ねえ、あなたに逢いたい。一緒に流れ星を見たい。
帰りたい。帰りたい。帰りたい。帰りたい。
ねえ、早く帰りたい。あなたのところに帰りたい。
開いて。開いて。開いて。開いて。
ねえ、お願い。天門を開いて。星でも何でもいい。
あの天門を開いて。私をあの人のところへ戻して。
諦めたりしない。絶対に。
「何を考えている」
隣に佇むソンジンが、空を見つめたままでウンスへ問う。
「早口言葉」
ウンスは星空に向けて、そう呟いた。
ソンジンはウンスの声に首を傾げた後、思い直したように、黒い空に流れる星を黙って見つめ続けた。
一番早く唱えられる願い事。
次々に流れる星が消えるまで、心の中で何度だって言うわ。
また一つ流れる星にウンスは早口で唱え続ける。
もう一度逢わせて。そして、二度と離さないで。
【 星雨 | 2015 summer request・流星群 ~ Fin ~ 】

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なるほど… そうつながるわけだ。
( ´艸`)おおおお スゴイ感動。
そして 星に願いを…
はやく 二人を会わせてあげてくださ~い!
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今日はオリオン座流星群が見られるとか・・・
ヨンとウンスの想いを感じながら、星空を眺めてみようと思っています。
さらんさん、寂しさが心にあるでしょうに、お話を書き続けてくださってありがとうございます。大切に読ませたいただきます。
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さらんさん、素晴らしい締めくくりのお話に、震えました。
ヨンの時代とソンジンの時代がウンスで繋がるのですね。ヨンが、四年もの間、天門の地で待てたのは、きっとウンスが戻るという確信が持てたから。心の支えができたからですね。さらんさんのお陰で、さらにシンイが壮大な物語になりました!
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さらんさんの描き出す闘いのシーンは、プロの時代小説さながらのスケールで読む者を包み込み、なおかつチェヨンを信じきってその声を待つ兵士達が映し出され、チェヨンが圧倒的な存在感で浮かび上がってきます。
いのちを愛おしむことを知ったチェヨンが敵に向かって投げる俺に向かって来るなという心の声。けれど、突き進むことが唯一許された選択肢。苦しまずに命果てるように鬼剣をふるうチェヨンの姿。人間チェヨンがいます!
元の武将と交わす会話の中にも読む者を唸らせる
魅力!
そして、悠久の時の流れの中にあって結ばれているヨンとウンス。二人の距離は流星群の世界では無いに等しく、心はしっかり繋がっている。
ドラマティックで本当に心に染み入る作品でした。
私の特別なさらんさん作品群の中にくわえさせていただきました。
作品の再開。
さらんさんがゆっくり歩みだして下さっていると
思っています。